素直な心になるために



松下幸之助創設者は、「素直な心」を次のように定義しています。


「素直な心とは、寛容にして私心なき心、
広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。
また、静にして動、動にして静の働きのある心、
真理に通ずる心であります」。


 お互い人間が最も好ましい生き方を実現していくには、
それにふさわしい考え方や行動をすることが大切で、
その根底になくてはならないものが「素直な心」
であるというわけです。

 

 

 



素直な心の内容10ヵ条


第1条 私心にとらわれない
    素直な心というものは、私利私欲にとらわれることのない 心。私心にとらわれることのない心である。
第2条 耳を傾ける
  
素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても、謙虚に耳を傾ける心である
第3条 寛容
 
素直な心の内容の中には、万物万人いっさいを許し いれる広い寛容の心というものも含まれている
第4条 実相が見える
 
素直な心というものは、物事のありのままの姿、本当の姿、実相というものが見える心である
第5条 道理を知る
  
素直な心というものは、広い視野から物事を見、その道理  を知ることのできる心である
第6条 すべてに学ぶ心
  
素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、  そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である
第7条 融通無碍
  
素直な心というものは、自由自在に見方、考え方を変え、よりよく対処してゆくことのできる融通無碍の働きのある心である
第8条 平常心
  
素直な心というものは、どのような物事に対しても、平静  に、冷静に対処してゆくことのできる心である
第9条 価値を知る
  
素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、  価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心で  ある
第10条 広い愛の心
  
素直な心というものは、人間が本来備えている広い愛の心、慈悲の心を十二分に発揮させる心である

 



素直な心の効用10ヵ条


第1条 なすべきをなす
  
素直な心が働いたならば、なすべきことを正しく知り、それ  を勇気をもって行なう、という姿が生まれるようになる
第2条 思い通りになる
  
素直な心になれば、すべてに対して順応していくことがで  きるから、何でも自分の思い通りにすることができるように  なる
第3条 こだわらない
  
素直な心になれば、何事に対してもこだわりやわだかまり  が心にのこらないようになってくる
第4条 日に新た
   素直な心になれば、現状にとらわれることなく、日に新たな  ものを生み出していくことができるようになる
第5条 禍を転じて福となす
  
素直な心になれば、危機に直面してもこれをチャンスと  受けとめ“禍を転じて福となす”こともできるようになる
第6条 つつしむ
  
素直な心になれば、自分の立場をわきまえて、つねに つつしむという見識も生まれてくる
第7条 和やかな姿
  
素直な心になったならば、いらざる対立や争いが
  おこりにくくなって、和やかな姿が保たれるようになる
第8条 正邪の区別
  
お互いが素直な心になったならば、何が正しいか正しくな  いかという区別がはっきりし、共同生活の秩序が高まって  ゆく
第9条 適材適所の実現
  
素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、  価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる  心である
第10条 病気が少なくなる
  
素直な心になれば、病気になりにくくなり、たとえなっても比較的直りやすくなる

 

 


素直な心のない場合の弊害10ヵ条


第1条 衆知が集まらない
  
素直な心がない場合には、人のことばに耳を傾けようとし  なくなり、その結果、衆知が集まらないようになる
第2条 固定停滞
  
素直な心がない場合には、現状にとらわれて創意工夫を  おこたり、進歩向上のない固定停滞の姿が続いていくよう  になる
第3条 目先の利害にとらわれる
  
素直な心がない場合には、目先の利害にとらわれて物事  を判断した行動をとりやすく、将来の発展を損なう場合が少  なくない
第4条 感情にとらわれる
  
素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れ
  て、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない
第5条 一面のみを見る
  
素直な心がない場合には、物事の一面のみを見て、それ  にとらわれがちになってしまう
第6条 無理が生じやすい
  
素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる
第7条 治安の悪化
  
素直な心がない場合には、個々人がバラバラとなって共同生活の秩序も乱れがちとなり、治安が悪化しやすくなる
第8条 意思疎通が不十分
  
素直な心がなければ、率直にものを言うこともなく、素直に耳も傾けないために、互いの意思疎通が不十分となりがちである
第9条 独善に陥りやすい
  
素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、視野もせまくなって、往々にして独善の姿に陥りかねない
第10条 生産性が低下する
  
素直な心がない場合には、いろいろな無駄や非能率が多くなって生産性というものが低下するようになる

 



素直な心を養うための実践10ヵ条


第1条 つよく願う
  
素直な心を養うためには、まず素直な心になりたいというつよい願いをもち続けることが必要である
第2条 自己観照
  
素直な心を養うためには、たえず自己観照を心がけ、自分自身を客観的に観察し、正すべきを正してゆくことが大切である
第3条 日々の反省
  
素直な心を養うためには、毎日、自分の行ないを反省して、改めるべきは改めてゆくよう心がけることが大切である
第4条 つねに唱えあう
  
素直な心を養うためには、素直な心になるということを、日常たえず口に出して唱えあうようにしてゆくことが大切である
第5条 自然と親しむ
  
素直な心を養っていくためには、心して自然と親しみ、大自然の素直な働きに学んでいくことも大切である
第6条 先人に学ぶ
  
素直な心を養っていくためには、先人の尊い教えにふれ、それに学び、帰依していくことも大切である
第7条 常識化する
  
素直な心を養っていくためには、それを養うということ自体を、お互いの常識にすることが大切である
第8条 忘れないための工夫
  
素直な心を養うためには、素直な心になることを忘れないための工夫をこらすことも必要である
第9条 体験発表
  
お互いそれぞれの素直な心の実践体験の内容を発表しあい、研究しあってゆく
第10条 グループとして
  
素直な心を養っていくためには、互いに素直な心を養う仲間同士として協力しあっていくことが大切である

 



 

素直な心の内容10ヶ条

 

素直な心というものは、私利私欲にとらわれることのない心、
私心にとらわれることのない心である


 素直な心というものの内容のひとつには、自分だけの利益や欲望にとらわれることのない、いわゆる私心にとらわれない、ということがあげられると思います。

 ふつう一般にいって、私心というか、私利私欲を求める心というものは、お互い人間が生きているからには当然あるものというか、当然働くものでありましょう。私心が全くない、というような人間は、いってみれば俗事を超越した神の如き聖人であって、お互い凡人がそう簡単に到達し得る境地ではないと思います。やはり、ふつうの場合は、それなりの私心をもって日々の生活を営み、活動を続けているのが、お互い人間の姿といえるのではないでしょうか。また、それはそれでよいと思うのです。

 けれども問題は、その私心にとらわれ、私利私欲の奴隷になってはならないということです。私心にとらわれて物を考え、事を行うということになると、やはりいろいろと好ましからざる姿が起こってくると思うのです。たとえば仮に政治の衝にあたる人が私心にとらわれて自分にばかり都合のいい政治をおこなうとしたらどうなるでしょう。そういう姿からは国民の多くがいろいろな迷惑をうけ、多大な損害をこうむることにもなりかねないでしょう。そしてそれはその政治家自身にも、国民の支持が失われるなどの大きなマイナスとなってはね返ってくると思います。

 だからお互いに素直な心になることが大切です。素直な心になったならば、もちろん私心は働くけれども、それにとらわれることなく、他の人びとのことも十分配慮する、というような姿になると思うのです。

 

 

素直な心というものは、
だれに対しても何事に対しても、謙虚に耳を傾ける心である


 戦国時代の武将、黒田長政は、“腹立てず”の異見会という会合を月に二、三度ずつ催していたといいます。参加者は家老をはじめとして、思慮があって、相談相手によい者、またはとりわけ主君のためを思う者など六、七人であったということです。

 その会合を行う場合には、まず長政から参加者に対して次のような申し渡しがあります。「今夜は何事をいおうとも決して意趣に残してはならない。他言もしてはならない。もちろん当座で腹を立てたりしてはならない。思っていることは何でも遠慮なくいうように」

 そこで一座の者も、それを守る誓いを立てた上で、長政の身の上の悪い点、家来たちへの仕打ち、国の仕置きで道理に合わないと思われる点など、なんでも低意なく申し述べるわけです。過失があって出仕をとめられた者や扶持をはなれた者のわびもいう。そのほかなにごとによらず、通常の場合には口にしにくいことをいい合いました。

 もちろん長政も人間です。だから自分の悪い点を家来が面と向かって指摘したなら腹も立つでしょう。しかし、そこで腹を立てればもうおしまいです。だからそのことをあらかじめ考えて、会合の前に“腹を立ててはいけない”というルールをお互いに誓いあって万全を期していたわけです。まことにゆきとどいた姿といえるのではないでしょうか。

 長政がそういう姿の会合を続けていたということは、一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと思われます。

 そういう謙虚さはどこから出てきたかというと、それはやはり素直な心が働いているところから出てきたのではないかと思うのです。謙虚な心で衆知に耳を傾けるということは、いつの時代どんな場合でも非常に大切なことですが、素直な心が働けば、そういう姿がおのずと生まれてくるのではないかと思います。

 

 

素直な心の内容の中には、万物万人いっさいをゆるしいれる
広い寛容の心というものも含まれている


 お互い人間は、どこかの離れ小島でたった一人で生きているというのでなく、ふつうみなが相寄って、集団生活、共同生活というものを営んでいます。その共同生活を営んでいく上で大切なことはいろいろありましょうが、中でも最も大切なことの一つは、お互いがともどもによりよく生きてゆく、ということではないでしょうか。そしてそのために大切なことの一つに“寛容”ということがあるのではないかと思います。

 共同生活にはいろいろな人がいます。背の高い人もおれば低い人もいます。声の大きい人もおれば小さい人もいるでしょう。いろいろな性格、考え方の持ち主が一緒にいるわけです。したがって、もし背の高い人が低い人に対して、「背が低いのはけしからん。消えてなくなれ」というようなことをいったとするならば、背の低い人たちはみな怒るでしょう。しかしいたたまれなくなってどこかへ行こうと思っても、結局、共同生活から出ていけば生きていくことはできません。だから、背の高い人が低い人の存在を認めないようなことがあれば、両者の間に争いもおこり、お互いの不幸な姿も生まれかねないでしょう。もちろん実際にはこういったことはありえないことかもしれませんが、しかしたとえば思想や宗教、あるいは人種的な差別という面では、往々にしておこりかねないことだといえましょう。

 寛容とは、広い心をもって、よく人をゆるしいれるということです。また人のあやまちに対して、きびしくとがめだてしないということです。したがって、たとえよくないことをした人に対して善意をもってそのあやまちを正すということはしたとしても、よくないことをしたからといってその人を憎み、その存在をゆるさない、というようなことはしないということです。それでは寛容ということにはならないだろうと思われます。

 それでは、寛容の心はいったいどこから生まれてくるのかといいますと、それはやはり素直な心から生まれてくるものだと思います。つまり、素直な心というものになれば、おのずとそういう寛容の心があらわれてくるのではないかと思うのです。

 

 

素直な心というものは、物事のありのままの姿、
本当の姿、実相というものが見える心である



 素直な心は、物事のありのままの姿、実相というものを見ることのできる心であるともいえると思います。というのは、素直な心になったならば、心の中に物事の実相をおおいかくすというか、これを曇らせるようなものがなくなると思われるからです。
 美しく磨きあげられた無色透明なガラスをとおせば、物がそのありのままに見えます。それと同じように、素直な心になったならば、物事の本当の姿というか、実相がはっきりと見えるようになるのではないかと思います。だから実相に基づいて物事を考え、判断することも、しだいにできやすくなってくると思うのです。

 もしもこれが、無色透明でなく色のついたガラスであったならばどうでしょうか。色ガラスをとおしてみれば、向こうにあるものの本当の色が正確にはわからなくなります。仮にガラスの色が青色であるとすれば、向こうにある白いものは白くは見えず、青みがかって見えるでしょう。つまりこれでは、本当のありのままの姿というものがわからなくなります。あるいはまた、そのガラスがゆがんだガラスであれば、向こうにあるものもゆがんで見えるわけです。けれども素直な心になって物事を見た場合には、無色透明で正常なガラスをとおして見るように、なんの色もつかず、そのありのままが見えるというわけです。

 今日のわが国においては、政治をはじめとして社会の各分野の活動において、またお互いの日々の生活の各面において、いろいろとあやまちやゆきちがいが生まれてきています。そしてそれらがお互いの悩みや苦しみ、対立や争いをいっそう深めている面さえあるように思われます。こういう面もあるということも、一つには、お互いが素直な心ならざる色ガラスをとおして見、それにとらわれて判断を下し行動している、というような姿が少なくないからではないでしょうか。

 もしそうであるとするならば、やはりそのままではいけないと思います。お互いに素直な心を養い高め、物事の本当の姿を見ることができるようにつとめなければなりません。じっさい、お互いが素直な心になるならば、しだいに色ガラスでなく無色透明なガラスをとおして物事を見るというような姿にもなってゆくでしょう。したがってその判断は物事の実相に基づいた判断ともなり、あやまちのない適切な判断となってくるわけです。

 

 

素直な心というものは、
広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心である


 寛永の頃に幕府の勘定奉行をつとめた伊丹播磨守康勝は、農民や町民のために利をはかることが多かったといいます。たとえば、その頃、運上金、つまり税金を公儀に納めて、甲斐国から出る鼻紙を一人で商っていたのをうらやんだある富商が、「私にお任せ下されば、これまでより一千両も多くの運上金を納めます。どうかお許し願います」と願い出ました。

 それに対し、評議では許すことに決まりそうでしたが、播磨守一人は反対しました。富商はなおも熱心に願いつづけたので、三年後には老中など執政の人々の意見も許すことで一致しました。そのとき播磨守は、「これより後に、盗賊のおこらぬ道が立ちますならば、いかにも許しましょう」といいました。

 人びとがそのことばのわけをたずねると、播磨守は次のようにいったということです。「鼻紙というのはみなの生活必需品ですが、その値段が低いから世の助けになっています。千両多く運上金を納めるといいますが、その千両をどこから引きだすつもりでしょうか。その紙の値段を上げて小売商に卸し、小売商がまた値段を上げて売るようになったら、値段は相当高くなるでしょう。一物の値段が上がれば、万物の値段も同じように高くなるのは道理です。

 諸物価が高くなって、求めようにも求められなくなる場合には、盗みということがおこります。盗むことが世に盛んになったら、どういう政治をしてこれを防げるでしょうか。盗みは貧よりおこります。わずかに千両の金が増えるからといって、世の風俗を乱してはなりません。運上金を多くしようとすれば、物の値段が高くなっていくのです。このことをよくよくお心得願いたく存じます」。人々は、播磨守の遠いおもんぱかりを知って、みなその言に従ったということです。

 今日のわれわれも、物価の問題についていろいろ悩まされていますが、お互いに播磨守のように道理を知り、遠いおもんぱかりをもって物事を考えることも一面において大切ではないでしょうか。そして、そのためにもまずお互いにつね日頃から、素直な心というものを十分養い高めて、つねに素直な心が働くよう心がけていくことが大切だと思うのです。

 

 

素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、
そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である


 何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、そのような心がまえをもって人生をすごしてゆくならば、月日とともにいろいろなことをおぼえ、学びとってゆくこともできるでしょう。だから、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。

 たとえば、他の人びとと通常ふつうの会話を交わしている際でも、何の気もなしにただ話をしているだけであれば、その場限りのものとなってしまうでしょう。けれどもそういう際にも、勉強する態度というか、学ぶ心というものを保っていたとするならば、相手のふとしたことばの中からハッと学ばせられるようなものを見つけ出すこともあると思います。自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中からいろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。

 学ぶ心があれば、この世の中の一切の人、物、あらゆる物事のすべてが、自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。だから学ぶ心からは、お互いのたゆみなき向上、進歩の姿というものも生まれてくるのではないかと思うのです。

 学ぶ心というものは、こうした好ましい姿をもたらすものであると思うのですが、この学ぶ心というものも、素直な心になるところからあらわれてくるものだと思います。というのは素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、吸収すべきは何でも吸収する心だからです。したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。すでに字がかかれているから、もう絵をかいてはいけない、というようなこともありません。また、すでに全面にわたって字がかかれているから、書き足す必要はもうない、というようなこともないわけです。字でも絵でも、すべてを新しいものとしてみとめ、そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。

 要するに、素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。いっさいに対して学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も生まれてくるでしょう。素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さというようなものもあらわれてくるのではないかと思います。

 

素直な心というものは、自由自在に見方、考え方を変え、
よりよく対処してゆくことのできる融通無碍の働きのある心である


 素直な心というものは、融通無碍の働きのある心であるともいえると思います。すなわち、物事に対して臨機応変、自由自在にとりくむことのできる心ではないかと思うのです。したがって、素直な心が働くならば、いつどのような物事に出くわそうとも、必要以上に おどろきあわてることなく、また窮してゆきずまることもなく、つねに正々堂々と物事に対処し、そこによりよき成果を生み出していくことができるのではないでしょうか。

 それはいってみれば、一つのことにとらわれたり、固定してしまうというようなことが なくなるからでありましょう。つまり、極端にいえば困っても困らない、一見できないようなことでもできるというように、まことに自由自在な行動、姿というものがそこに生ま れてくるからではないかと思うのです。

 たとえばお互いが何か大きな失敗をしたとします。失敗をすること事態は、お互い人間 の常として、一面やむをえないといえるかもしれません。しかしその失敗が自分にとってきわめて深刻な場合には、それを気に病んで悲観し、思いあまって自分の生命をちぢめる といったような姿さえ実際には見られます。これはまことに気の毒な同情すべきことだと思います。

 けれども、また一面においては、もしも素直な心が働いていたとするならば、おそらくそういう不幸な姿に陥ることはさけられるのではないかとも考えられます。というのは、 素直な心が働いていたならば、物事を融通無碍に考えることができるからです。ですから、 いかにその失敗が深刻であったとしても、たとえば“失敗は成功の母である”というように考えて、それを生かしていこう、と思い直すことができると思うのです。

 ですから、お互いが素直な心を養い高めていったならば、いらざる衝突、争いなどはほ とんどなくなって、きわめて和やかに、つねに談笑のうちに日々の活動が営まれていくようになるわけです。このように、素直な心になったならば、融通無碍な心の働きというも のもあらわれてくるのではないかと思うのです。

 

 

素直な心というものは、どのような物事に対しても、
平静に、冷静に対処してゆくことのできる心である


 剣聖といわれた宮本武蔵の記した“五輪書”のには、いわゆる兵法の極意がいろいろ述べられていますが、その一つに“兵法の道において、心の持ちようは、常の心にかわるこ となかれ”というのがあります。これは、たたかいの場においても常の心、すなわち平常心、平静心を保つことが大切だということでしょうが、なかなかこれはむつかしいことであろうと思います。

 というのは、たたかいの場といえば、いってみれば命のやりとりが行なわれるわけです。当時であれば刀や槍などの武器がふるわれ、殺気にあふれて必死に争いあうわけでしょう。 だからふつうであれば、極度に緊張し、また興奮もしてくるだろうと思われます。

 けれども、そのように心が張りつめ、高ぶってしまったならば、かえって冷静な判断を下すこともできにくく、またとかく身体も柔軟性を失いがちとなり、思わぬ失敗をしてし まうことにもなりかねません。しかも、戦いの場における失敗は死につながると思います。 それだけに、できるだけ冷静な態度を保っていることがのぞましいわけです。そこで宮本武蔵も、兵法の極意の一つとして、この平常心、平静心というものをとりあげたのではないかと思われます。

 今日においては、もう実際に命をやりとりするような場は、ふつうの状態においてはほとんどみられません。戦争などの特別な場合を除いては、なくなりつつあると思います。しかし、そういう平常心、平静心というもの自体は、たたかいの場に限らず、またいつの 世にも大事なのではないでしょうか。

 というのは、今日のお互いの日々の生活、活動の上においても、冷静さを欠き、平静心を失ったがために、思わぬ失敗を招いたというような姿が、いわば日常茶飯事のようにひ んぱんにおこっているように思われるからです。

さらにまた、人との交渉の際などにおいても、また試験をうけたり、スポーツ競技に参加した場合などにおいても、同じように平常心、平静心というものが、大事になってくる のではないでしょうか。

 お互いが素直な心になれば、おのずとそういう平常心、平静心が得られると思います。すなわち、お互いが素直な心で物事を見、考えていったならば、物事を冷静に、平常心を 保って見、考えていくということもできるようになると思うのです。

 

 

素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、
価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である


 今、仮にだれかがあなたに対して、一つの助言をしてくれたとします。あなたは、その助言をどう受けとめるでしょうか。もちろん、その助言の内容にもよるわけですが、内容 は一応よいものとして、それをどういう態度で受けとめるか、ということです。

 その受けとめ方は、いろいろあると思います。「ああ、これはいい助言をしてくださった、ありがたい」と感謝の心で受けとめ、その助言を生かしていく場合もあるでしょう。その反対に、「いらない世話だ。助言など必要ない」といった拒否の態度をとる場合もあ るでしょうし、さらには、「表面ではいいことをいうが、ウラで何をたくらんでいるかわ からない、気をつけよう」というように不信、疑いの心で受けとめるといった場合もあるかもしれません。

 こうした受けとめ方のうち、素直な心をもっている場合の受けとめ方はどういうものか というと、やはり素直な心があれば最初にあげた場合のように、感謝の心で受けとめるのではないかと思います。なぜ感謝の心で受けとめるのかというと、それはもちろん、助言 をしてくれた好意、親切に対しての感謝もあると思います。また、それと同時に、素直な 心というものは、よき助言はよき助言として受けとめることができる。つまりよいものはよいものとしてはっきりと認識することができる心であるからだ、ということです。

 素直な心になったならば、物事の本当の姿を見る、物事の実相を見る、ということもできるようになるわけですが、物事の実相を見るということは、やはり一つには、よいものはよいものと認識し、価値あるものはその価値を正しく認める、といったことにもなるだろう思います。だから、よいものはよいものと認識し受けとめるというような態度は、結局のところ、その根本は素直な心の働きのあらわれの一つということになるのではないか と思うのです。

 

 

 

素直な心というものは、人間が本来備えている
広い愛の心、慈悲の心を十二分に発揮させる心である


 お互い人間というものは、他の人が困っているのを見れば、なにか手助けできることは してあげよう、と考えるのが自然の情ではないかと思います。もちろん、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、というような姿もときにはありましょう。しかしそういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、だれ か他の人が助けてあげればよいのにとか思っているのであって、これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、などとはまず考えないのではないでしょうか。

 もともと人間というものは、互いに心を結びあって、大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこうというような心をもっているのではないかと思うのです。つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、本来人間は備えているのではないかと思うのです。

 しかしながら、現実のお互い人間の姿というものをみると、必ずしもつねにそういう愛の心、慈悲心が発揮されているとはいえないでしょう。ではなぜ、そういう愛の心が十二分にあらわれてきにくいのでしょうか。これについては考え方はいろいろあるでしょう。しかし、やはり一つには、お互いの心がいろいろなものにとらわれている、だからその本来もっているあたたかい心があらわれてきにくいのではないかと思います。たとえば、お互いの心が一つの利害にとらわれてしまうと、他のことを忘れて利害のみを争うようにもなり、自分の思うようにいかないとそこに憎しみが生まれて愛の心をかくしてしまう、ということもあると思います。

 けれども、お互いが素直な心になったならば、そういったもろもろのとらわれというものはなくなっていくと思われます。したがって自分の利害にも、立場にも、また自分の考えや主張にも、すべてにとらわれることがないという姿にもなってくるでしょう。

 すなわち、素直な心になれば、人間本来の広い愛の心、慈悲心が働いて、みながともどもに明るく幸せに生きてゆくことができるような姿が生まれ、高まってゆくのではないかと思うのです。

 素直な心というものは、そういう広い愛の心、慈悲心にもつながっていると思います。

 

素直な心の内容10ヶ条


第1条 なすべきをなす


素直な心が働いたならば、なすべきことを正しく知り、
それを勇気をもって行なう、という姿が生まれるようになる


 ご承知のように、羽柴秀吉が主君織田信長の命によって中国攻めをしていたとき、主君信長が本能寺で明智光秀に討たれてしまいました。

 そのとき、京都の周囲には信長麾下(きか)の武将がたくさんいましたが、秀吉は遠く京都をはなれ、しかも毛利という大敵と戦っていたのです。信長麾下の武将たちは各方面を攻めにいっていましたが、距離からいうと一番遠くにいたうちの一人が秀吉でした。

 近くには、信長の息子信孝が大坂に、同じく信雄が伊勢にいました。光秀は憎い親のかたきですから、息子がまずだれよりも先にかけつけて、光秀と一戦交えるというようなことをしなければなりません。しかし、息子たちはそうせずに、いわば形勢を展望していたのです。その当時の常識としては、いわゆる“不具倶戴天の父のかたき”ということがあります。つまり、父のかたきとはともに天をいただかない、ともに生きてはいない、ということです。一戦交えたら勝つか負けるかわかりません。しかし勝つか負けるかということよりも、ともに生きているという状態にはしておかない、ということです。これがその当時としてのいわば道徳のひとつであったと思うのです。

 一方、秀吉はどうであったかというと、秀吉は一番遠くにいて、てごわい敵と戦争していましたが信長が討たれたと知ると直ちに敵と和睦し、そしてとるものもとりあえず引き返して、不倶戴天の主君のかたきを見事に討ちました。これは当時の道徳に素直に従った姿であるともいえるのではないでしょうか。

 天下をとろうなどという野心が先に立ったのでは、なかなかあのようにうまくはいかなかったでしょう。自己の利害ということを超越し、ただひたすらになすべきをなした、やらねばならないことをやった、ということだと思います。そして、そういう私心をはなれた態度、行動をとるということは、やはり素直な心にならなければなかなか出てこないのではないかと思うのです。

 このような点から考えてみても、素直な心の偉大さというものがよくわかるのではないでしょうか。もちろん、当時と今日とでは、考え方も道徳のようなものもずいぶんちがいますからこの例はそのまま今日にあてはまるものではないでしょう。ただ大切なことは、なすべきことは私心をはなれて断固として行なう、ということです。ときには、自分の命をかけてでもやりとげるということです。


第2条 思い通りになる


素直な心になれば、すべてに対して順応していくことができるから、
何でも自分の思い通りにすることができるようになる


 何事によらず、物事を自分の思う通りにやりたいというのが、お互い人間の一面の姿ではないかと思います。たしかに、人でも物でも、すべてが自分の思う通りに動いていくとしたら、一面これほど愉快なことはないともいえるかもしれません。

 けれども実際の世の中というものは、どちらかというと、人でも物でもなかなか自分の思う通りには動いてくれない場合が多いのではないでしょうか。それで相手と争ったり、みずからいろいろ思い悩んだりするなど、好ましくない姿に結びつく場合も少なくないように思われます。

 しかしお互いが素直な心になったならば、そういう好ましくない姿は生まれてこないのではないかと思います。というのは、素直な心になれば、すべてがいわば自分の思い通りになると思われるからです。自分の思い通りになるというのは、思い通りになるように、自分から順応していくからです。

 すなわち素直な心が高まってくれば、そのなすところは融通無碍となり、いわば障害はなくなってしまうと思われます。それはなぜかというと、できないことはやらないようになるからです。こういうといささか消極的になりますが、逆に積極的にいうと、できないと思われるようなことでもよき考えを生み出してやりぬくという知恵がわいてくると思うのです。

 つまりこれは非常にむつかしいけれども、こうやればできるということがしだいにわかってくると思うのです。それで、非常にむつかしいことでも、それをのりこえ、道をひらいてゆくことができると思います。けれどもその反面においては、これは絶対に不可能だということはもう始めからやらない、ということにもなると思います。だから素直な心が高まってくれば、これは今の段階ではムリであるということと、これはやればできるということと、その両方が同時にわかってくるのでないかと思うのです。

 だから、素直な心になったならば、自分の行く手に高い山がたちふさがったような場合でも、これをムリヤリつきぬけて通ろうというようには考えずに、たとえば山のふもとを回り道して通っていけばよい、というように考えるだろうと思うのです。そしてそのようにするなら、そこにムリもおこらず、争いとか悩みをおこすこともなく、その山を越すこともできるのではないかと思うのです。


第3条 こだわらない


素直な心になれば、何事に対してもこだわりやわだかまりが心にのこらないようになってくる


 お互いが素直な心になったならば、人からなにをいわれようと、またなにごとがおころうと、みずからの心にわだかまりやこだわりが残るということは比較的少なくなるのではないかと思います。

 たとえば、よく冬の寒い日などに、子どもたちが窓ガラスに息を吹きかけて遊んでいます。子どもたちがふっと息を吹きかけると、すき通った窓ガラスに白いくもりができます。白いくもりができると、向こう側がよく見えなくなります。けれども、間もなくそのくもりはうすくなって、また元のすき通ったガラスにもどります。そこで子どもたちはもう一度息を吹きかけます。けれども、再びくもった窓ガラスは、すぐにまた元通りになるのです。これは何度くり返しても同じことです。

 素直な心になったならば、ちょうどこの窓ガラスと同じように、何かこだわりやわだかまりを持つようなことが身にふりかかったとしても、それがいつまでも心の中に残るようなことは少ないであろうと思うのです。つまり、ごく短い間には、そのことが気にかかるかもしれませんが、すぐにそれは窓ガラスの白いくもりと同じように、自然に消えていくであろうと思います。

 というのは、素直な心になるということは、私心なく真理というか正しいことにしたがうというところに基本の態度があり、そこに一つの大きな安心感がありますから、こまかいことにくよくよせず、つねに前向きにものを考えるという姿勢が保たれているからではないでしょうか。

 したがって、こだわりはこだわりとならず、わだかまりもわだかまりとはならない、というような姿も生まれてくるのではないかと思われます。


第4条 日に新た


素直な心になれば、現状にとらわれることなく、
日に新たなものを生み出していくことができるようになる


 幕末の頃、土佐の檜垣清治という人が、その頃土佐で流行していた大刀を新調し、江戸から帰ってきた坂本龍馬に見せたところ、龍馬は、「きさまはまだそんなものを差しているのか。おれのを見ろ」といって、やさしいつくりの刀を見せました。そして、「大砲や鉄砲の世の中に、そんな大刀は無用の長物だよ」といいました。

 清治は、「なるほど」と気がつきました。そこで、龍馬のと同様の刀をこしらえて、その次に帰ってきたとき見せました。すると龍馬は、「この間は、あの刀でたくさんだといったが、もう刀などはいらんよ」といいながら、ピストルをとり出して見せたというのです。

 またその次に帰ったときには、「今の時勢では、人間は武術だけではいけない。学問をしなければならない。古今の歴史を読みたまえ」とすすめたということです。

 さらにその次に会ったときには、「おもしろいものがあるぞ。万国公法といって、文明国共通の法律だ。おれは今それを研究しているのだ」と語ったそうです。

 清治は、「そのように龍馬にはいつも先を越されて実に残念だった」と人に語ったといいますが、坂本龍馬という人はいつも先ざきを見ていたから、そういう姿も出てきたので はないかと思われます。そしてそういう、現状にとらわれない、たえず先を見るというような姿は、やはり素直な心が働いているところから生まれてくるものではないでしょうか。

 素直な心になれば、現状にとらわれるということがなくなって、つねに何が正しいか、何がのぞましいかということがおのずと考えられ、それがスムーズに見きわめられてゆくようにもなるでしょう。坂本龍馬は傑物であったといわれますが、結局彼は当時としては非常に素直な心の持ち主であったのではないでしょうか。素直な心の持ち主であったがために、つねに世の流れの先を見越して、次つぎと新しい考え方を生み出し、よりのぞましい行き方をとることもできたのではないかと思います。

 そういうような点から考えても、素直な心というものは、お互い人間の共同生活の日に新たな進歩向上をもたらすために、きわめて重要で大切な心の持ち方ではないかと思います。


第5条 禍を転じて福となす


素直な心になれば、危機に直面しても
これをチャンスと受けとめ“禍を転じて福となす”こともできるようになる


 お互いがそれぞれの仕事をすすめていく上にも、また人生の歩みの上においても、ときに非常な困難、危機ともいうべき局面にぶつかることもあろうと思います。そして、そうした難局に直面した場合、人によってはそれに負けてしまい、ゆきづまってしまうような姿もあるでしょうが、その反対に、それを一つのチャンスとしてとらえ、非常な努力を注いで取り組んだ結果、みごとその難局をのりこえるばかりでなく、むしろよりよき発展をとげた、というような姿もあるのではないでしょうか。

 後者のような姿は、いわゆる“禍を転じて福となす”といった姿ではないかと考えられますが、お互いが素直な心になったならば、この後者の姿を実際にあらわすこともできるようになるのではないかと思います。すなわち、素直な心の効用の一つとして、“禍を転じて福となす”ということもあげられると思うのです。

 それではなぜ、素直な心になれば“禍を転じて福となす”ことができるのでしょうか。これについては、いろいろな見方、考え方ができると思いますが、たとえば次のようなことも考えられるのではないかと思います。

 すなわち、いま仮に世の中が不況でお客さんが減ってしまったうどん屋さんがあったとします。このうどん屋さんとしては、いわば商売上の危機を迎えたわけです。しかし、このうどん屋さんに素直な心が働いていたならば、お客が少なくなったからといって、少しもあわてないだろうと思います。

 というのは、素直な心のうどん屋さんであれば、“この不況は自分の力を存分にふるうチャンスだ。自分の本当の勉強ができるときだ”というように考えるのではないか思うからです。したがってそのうどん屋さんは、従来の自分の商売のやり方とか考え方を、私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すと思います。今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。

 このようにして、そのうどん屋さんが素直な心で対処してゆくならば、不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客が増えて繁盛してきた、というような姿を生み出すこともできるようになるわけです。


第6条 つつしむ


素直な心になれば、自分の立場をわきまえて、つねにつつしむという見識も生まれてくる


 江戸の昔、世間で鶉(うずら)を飼うことがはやったことがありました。身分の高い家々では、互いによい鶉をと争い求めたので、その値段も非常に高くなったということです。老中阿部豊後守忠秋も、その頃鶉を好んで、つねにそばにカゴをおいて、鳴き声を楽しんでいました。

 そのことをある大名がきいて、高価な鶉を買って、あるご典医を通し「ちか頃珍しい鶉を手に入れましたから、お慰みに進上します」といわせました。これをきいた豊後守は、なにも答えずに、近習の者を呼び、「鶉カゴの口を庭の方へ向けよ」といいつけ、さらに「カゴの口をみな開けよ」と命じました。

 それで近習の者がそのようにすると豊後守の飼っていた鶉はみんカゴを出て飛び去りました。ご典医はそれを見ていぶかしく思い、「よくお手馴らしてあるので、また帰ってくるのでございますか」とたずねました。すると豊後守は答えていいました。

 「そうではござらぬ。きょうはじめて放ったのでござる。それがしのような、上のご威光によって、人にとやかくいわれる身で、物など好んではならないということでござる。それがしがこの頃ふと鶉を好んだならば、もうそのように噂する人もでてくる。これからはふっつりと思い切って、鶉好きはやめましょうぞ」

 人間だれしも、自分のすきなことはやめにくいものです。しかし豊後守は、それが世の風俗にも好ましくない影響を及ぼし、またその権勢を自分のために利用するようなことは、日頃からかたくつつしんでいたので、あえてそのような処置をとったのだということです。

 贈物を受けとったとなると、とかく公正を欠いた判断にも結びつきかねません。たとえ公正であっても不公正な印象を残します。だから公の立場にある者としては、きびしくつつしみ、いましめなければならないのは当然でしょう。しかしその当然のことを当然として、贈物を受け取らないばかりか、自分の飼っている鶉まであえてとき放ったということは、これはなかなかできにくいことではないかと思われます。

 そのできにくいことをきっぱりと行ったところに、豊後守の素直さというものが感じられます。つまり、豊後守は、自分の個人的な感情とか欲望などによって事を判断したのでなく、公の立場にある者として何を考えるべきか、いかにあるべきか、というような深い考えに立って事を判断したのではないかと思うのです。


第7条 和やかな姿


素直な心になったならば、
いらざる対立や争いがおこりにくくなって、和やかな姿が保たれるようになる


 お互いが素直な心になったならば、いらざる対立や争い、いがみあいなどはおこりにくくなって、おおむね、和やかな明るい姿を保っていくことができるのではないかと思います。というのは、互いにいがみあったり、争いあったりすることの原因の多くは、お互いが素直な心になることによって、おのずととり除かれると思われるからです。

 たとえば、しばしばお互い人間の争いの原因となるものの一つに、利害の対立ということがあります。利害の対立というものは、お互いが自分の利益をぜひとも守ろう、損を絶対にしないようにしよう、などというように利害にとらわれるところからおこる姿だといえると思いますが、そういうところから、互いの争いとか衝突が生まれてくる場合がきわめて多いわけです。

 それからまた、感情のゆきちがいといったことも争いに結びつくでしょう。口のきき方がどうも気に入らないとか、自分を軽視したからけしからんとか、無視したから許せないとか、いわれなき非難中傷をされたとか、そういったことがしばしば原因となって、互いのいがみあい、争いがおこる場合も少なくないのではないでしょうか。

 けれども、お互いが素直な心になったならば、そういう姿はほとんどおこらないようになるのではないかと思います。というのは、素直な心になれば、たとえば自分の利害にとらわれるという姿も、それ自体がなくなっていくのではないかと思われるからです。  といっても、自分の利害を全く考えないというのではありません。それは当然考えるけれども、同時にまた相手の利害も十分考慮しあって、互いにいわば談笑のうちに事をすすめていく、というわけです。だから、お互いに、相手のことも考えずに自分の利害だけにとらわれて争いあうというような姿は、おのずとおこりにくくなってゆくのではないかと思われるのです。

 もちろん、お互い人間が争うのは、こうした利害の対立、感情のゆきちがいといったことだけが原因ではないと思います。今日ではとくに、いわゆる主義主張、思想などの上での対立、争いというものがみられるようになってきました。そしてそれが、単なる個々人の間の争いだけにとどまらず、団体と団体の争い、ひいては国家間の紛争、戦争といったものにまで発展しかねないような状況も一面においてみられるようです。これはまことに憂慮すべき姿であるともいえましょう。

 しかし、お互いが素直な心になったならば、こうした形の争いというものも、あまりおこらないようになっていくでしょう。というのは素直な心になれば、単に一つだけの物の見方考え方にとどまらす、さまざまな物の見方、考え方があることがわかりその良さをみとめ、とり入れようとするようになると思うからです。


第8条 正邪の区別


お互いが素直な心になったならば、
何が正しいか正しくないかという区別がはっきりし、共同生活の秩序が高まってゆく


 お互いが素直な心になったならば、いわゆる正邪の区別というものがはっきりしてくるのではないかと思います。というのは、素直な心になれば、互いに利害や感情にとらわれることが少なくなり、いってみれば冷静に客観的に物事の正邪を判定することができるようになると思われるからです。

 お互い人間というものは、ややもすると、自分の立場であるとか、利害、感情といったものにとらわれて物事の是非を考え、判断するという姿に陥りかねません。たとえば仮に、人に親切にすることの是非を問われれば、だれしも是と答えるでしょう。

 けれども、それでは日頃から仲のわるい相手に対しても親切にするかというと、それはちょっとできにくい。むしろ不親切にしているというのがいわばお互いの陥りやすい姿ではないでしょうか。

 そしてそれがお互いの陥りやすい姿であるだけに、ふつうはその非を指摘する人はほとんどいないのではないかと思われます。つまり、正邪の区別がアイマイにされがちになってしまうわけです。

 けれどもお互いが素直な心になったならば、人に親切にすることが正しいなら、仲のわるい人に対しても同様に親切にすることが正しい、という判断が生まれ、それが実際の姿にもあらわれてくるのではないかと思います。

 すなわち、仲のよしあしといった、いわば個人的な感情などにとらわれることなく、正しいことは正しい、と素直に判断できるわけです。そして同時に、正しくないことは正しくないこと、不正なことは不正なこと、というように正しく判断できるわけです。

 世のお互いがともどもに素直な心というものを養い高めていったならば、世の中のあらゆる面において、正邪の区別がはっきりし、それぞれが責任ある行動をとるようになるだろうと思います。そうすれば、お互いに、なすべきことは大いに行い、なすべきでないことは極力行わないといったような姿もおし進められ、共同生活の営みというものがきわめて高い秩序のもとに、好ましい姿において進み、日に新たに向上していくことにもなるのではないでしょうか。


第9条 適材適所の実現


素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、
価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である


お互いが素直な心になれば、一人ひとりが自分の持ち味を十二分に発揮できるような適材適所の実現が進められるようになる

この世の中にあるすべての物、そしてお互い人間の一人ひとりすべてが、それぞれにそれなりの特質なり持ち味というものを持っているわけですが、そうした万物万人の持ち味というものが十二分に発揮されていったならば、そこから、お互い人間の共同生活の向上、物心一如の真の繁栄というものも逐次もたらされてくるのではないかと思います。

 すなわち、それぞれの人、それぞれの物がよりよく生かされていくところから、物質面も精神面もともどもにゆたかになって、お互いの幸せというものも歩一歩高められて行くのではないか思うのです。

 けれども、現実の世の中の姿、お互いの姿というものをみると、そういう好ましい面が必ずしもつねに十分にあらわれているとはいえないようです。たとえば、それぞれの人の特質なり持ち味というものにしても、もちろんそれを十二分に生かして活躍しているという人もいるでしょうが、必ずしもそうではないという人も少なくないと思います。

 いわゆる適材適所ということばは、それぞれの人がその持ち味、能力というものを十二分に発揮できる仕事について活躍するというようなことを意味しているのではないかと思 いますが、その適材適所ということにしても、実際にはなかなか実現していない場合が少なくないようです。

 たとえば、今ここに非常に見識も高く、能力もあるすぐれた人がいて、その人がグループのリーダーとして一番ふさわしいという場合があったとします。その人は、いってみればリーダーとして最適任であって、リーダーとして立ったならばまさに適材適所が実現することになるわけです。

 しかしながらこの場合に、もしもその人がグループの最年少だったとしたならばどうでしょうか。なかなかスムーズにりーダーとしての立場に立ちにくい、ということにもなりかねないのではないでしょうか。つまりリーダーとしてふさわしい特性なり素質をもっていても、その特性が生かされにくく、適材適所が実現しにくいわけです。

 けれども、リーダーには年長者がふさわしいという考え方は、もともと年長者がリーダにふさわしい見識とか能力を培っていたというような事実が先にあったために、年長者こそリーダーにふさわしいといった考え方が生まれてきたのではないでしょうか。

 もしそうであるとするならば、たとえ年少者であってもその人がリーダーにふさわしい特性なり資質をもち、またこれを大いに伸ばしてやっていけるという場合には、その人はリーダーとして立つのが当然である、ということにもなるでしょう。

 そういうことを考えてみると、やはり年少者であるからという理由だけでリーダーに立ちにくいという姿があるとするならば、それはいってみればお互いが何かにとらわれたところからもたらされている姿であって、もしもお互いが素直な心になったならば、そういう姿はしだいになくなっていくのではないかと思われます。


第10条 病気が少なくなる


素直な心になれば、病気になりにくくなり、たとえなっても比較的直りやすくなる


 お互いが素直な心になったならば、病気になりにくくなると思います。というのは、一つには素直な心になれば物事の実相がわかりますから、いらざることに心を悩ませたり、またいたずらに心配したり不安感におそわれれるというようなことが少なくなるからです。

 今日、お互いの多くは何らかの病気にかかったり、故障を生じていたりして、そのために日々苦しんだり、不便な思いをしている場合が少なくないと思います。ところが、それらの病気や故障の中には、いわゆる精神面からきているものが相当に多いということです。

 つまり、仕事上の問題や対人関係の不調からくるストレスというものがつみ重なって、胃腸などの内蔵を痛めたり、また人生上の悩みからくるノイローゼになって頭痛に苦しんだりというように、心の面、精神面からくる病気というものがかなり多いわけです。

 そういうことを考えてみますと、お互いが素直な心を養い高めていくことによって、それらの病気にかかるということをずいぶん少なくしてゆけるのではないかと思います。お互いが素直な心になったならば、たとえどのような問題がおころうと、また自分がどうい う立場におかれようと、そのことによっていたずらに心を悩ませるというようなことはなくなるだろうと思うからです。

 なぜそのように悩まなくなるかといいますと、すでにくり返しのべておりますように、素直な心になれば物事の実相もわかり、物の道理もわかります。だからたとえば自分の立場のみを中心にして物事を考えるとか、自分の感情や利害にとらわれて事を判断するようなことがありません。しかもその心が高まっていけば、融通無碍の働きをすることもできるわけです。

 したがって、自分の感情が満たされないために悩むとか、自分の利益が損なわれるから悩むとか、物事がうまくいかないから悩むなどといった姿は、あまりおこってこなくなるでしょう。そしてつねに心は安らかに安定するだろうと思います。だから、心の面、精神面からくる病気というものは、お互いが素直な心を高めていくことによって、しだいに少なくしてゆくことができるのではないかと思われます。

 そうして、万が一、病気にかかってしまった場合でも、素直な心になれば、自分の病状がある程度自分でつかめるようになるでしょう。だから、医者の指示もよくわかって、その治療の効果も高めるよう協力していくということもスムーズにできるのではないかと思います。


素直な心のない場合の弊害10ヶ条


第1条 衆知が集まらない


素直な心がない場合には、
人のことばに耳を傾けようとしなくなり、その結果、衆知が集まらないようになる


 素直な心が働いていない場合におこってくる弊害というものは、これはいろいろとあると思いますが、その中でもとくに大きな弊害の一つは、人のことばに耳を傾けようとしなくなることではないかと思います。つまり、素直な心がないと、人がたとえ親切に教えてくれたり、助言してくれた大切なことでも、それをいたずらに聞き流したり、拒否したりするとが多くなるように思うのです。

 なぜ、そういうことになるのかというと、これはいろいろな場合があると思います。たとえば、自分の考え、行動は絶対に正しい、だから他人の助言を聞く必要はない、むしろそれはジャマになる、というように考えている場合もあるでしょう。また、とにかく自分の好きなことをやりたいのだ、他人の意見など聞きたくないのだと、事の是非はともかく自分のカラにとじこもろうとする人もあるでしょう。さらには、親切そうに言ってくれるけれども、これはきっと自分を失敗させようとして言っているのだろう。なにかワナがあるにちがいない、というように不信感が先に立って他人の意見をまともにうけとれない場合もあるかもしれません。

 そういうように、他人の意見をきかないといっても、そこにはいろいろな場合が考えられますし、時にはそれが正しい場合もあるかもしれないと思います。しかし基本的にいって他人の意見が素直に聞けないというのは、結局自分というものにとらわれている姿であって、決して好ましい姿ではないように思うのです。

 というのは、そのように、人のことばに耳を傾けないということになると、そのことによって、いろいろな弊害が生まれてくるからです。たとえば、人のことばに耳を傾けないということになれば、自分自身が物事に失敗しやすくなるのではないかと思います。

 いかにすぐれた知恵、広い知識をもっていたとしても、しょせん一人の知恵、知識には限りがあります。その限りある知恵、知識のみによって物事を判断していたならば、ときに適切な判断ができたとしても、いつかはあやまった判断をし、思わぬ失敗をしてしまうことにもなりかねないでしょう。

 そしてその失敗によるマイナスが自分一人だけのものであるならばまだしも、その人の立場によっては、周囲の人びとにも、また世の人びとにも、さまざまなマイナスをもたらすことになりかねません。そういう意味での弊害もあるのではないかと思うのです。

 そういうようなことをいろいろ考えてみると、素直な心が働かない場合の最も大きな弊害のひとつは、いわゆる衆知というものが集まらない、ということではないかと思われるのです。すなわち、素直な心が働かなければ他人の声に耳を傾けようとしなくなる、耳を傾けようとしなければ衆知が集まらなくなる、ということがいえるのではないかと思うのです。


第2条 固定停滞


素直な心がない場合には、現状にとらわれて創意工夫をおこたり、
進歩向上のない固定停滞の姿が続いていくようになる


 素直な心というものがない場合の弊害の一つに、物事の進歩向上が得られにくい、ということがあるのではないかと思われます。すなわち、素直な心がない場合には、よりよい姿を求めてより新しい歩みを進めていくといったような姿が生まれにくく、現状をよしとして改めるべきをも改めようとせず、いわゆる固定というか、停滞というか、そういう状況のままに推移していくといった姿があらわれるのではないかと思うのです。

 なぜ、そういう固定、渋滞の姿が続くことになってしまうのかというと、その原因はいろいろあると思います。たとえば、素直な心がなければ、現状なりこれまでの常識なり、そういったものにとらわれがちになり、それが固定、停滞に結びつくのではないかと思うのです。技術にしても、これまでのものが最良だと思っていたならば、よりすぐれた新しい技術を取り入れることを怠り、従来の旧式な技術をいつまでも使用するといった停滞の姿に陥りかねないでしょう。

 また、一つの思想や学説などを最良最高のものと思い込んで、他をかえりみることをしないというような姿に陥ったならば、これまた時代の変化、人心の移り変わりなどとかけ はなれた、きわめて旧式なものとなってもろもろの停滞を招くことにつながってゆくでしょう。

 そのように素直な心がない場合には、往々にして一つのことにとらわれがちとなり、改めるべきをも改めようとしないといった姿が生まれ、物事の進歩向上というものが得られない、いわゆる固定、渋滞の姿があらわれてくるのではないかと思うのです。

 ところが、現実の世の中には、案外こういうことが忘れられており、知らず知らず現状とか一度つくったものを固定化し、それにとらわれている姿が少ないようです。たとえば、いわゆる議会における議員の定数のようなものでも、もちろん規定によって変更が加えられるということはあるでしょうが、抜本的にというか根本に立ちかえって、果たして現在のような定数自体が最も好ましいものなのかどうか、というような検討は行なわれているでしょうか。現在よりも少ない定数で、しかも効率よく議会の使命を果たしてゆくという方法は、どうもあまり十分には検討されていないように思われます。

 また、いわゆる行政機構というようなものについてみても、これまでくり返しその合理化が叫ばれ、いろいろ検討もされ一部は実施されているようですが、しかしそれはごく小さな部分であって、抜本的な合理化というものはなかなか検討されにくいようです。

 こういった姿は、やはり現状というか、一度つくり上げたものを固定化し、そのワクにとらわれている姿ともいえるのではないかと思いますが、やはりこうした姿も素直な心が働いていないところから生じているのではないでしょうか。


第3条 目先の利害にとらわれる


素直な心がない場合には、
目先の利害にとらわれて物事を判断した行動をとりやすく、
将来の発展を損なう場合が少なくない


 素直な心というものがない場合の弊害のひとつに、目先の小さな利害にとらわれる、ということがあるのではないかと思います。すなわち、素直な心が働いていなければ、ついつい自分の目先の利害得失に心奪われ、それにとらわれて物事を考え、判断を下し、行動をとってゆくことになりかねないということです。

 もちろん、お互いが利害得失を考えるというのは、これは人間としていわば当然の姿であって、それを考えつつ物事を判断し、行なうということは、きわめてあたりまえのことだと思います。しかし、だからといって、つねに自分の利害得失だけを考え、それのみに基づいて物を判断するということになると、これはいささか目先の利害にとらわれた姿であり、そこからは物事はスムーズに運ばないのではないかと思うのです。

 自分の利害にとらわれるということは、いってみれば、その時々の自分の利益になることのみを追い求め、肯定し、損害になることはすべていみ嫌い、遠ざけ、否定する、というような姿であるともいえるでしょう。しかし、そういう、自分のことしか考えない姿というものは、往々にして他の人びとの利害を無視したり、軽視したりすることにも結びつきかねません。したがって、とかく人々の反発、非難を受けることにもなるでしょう。そこには争いが生じ、自他ともの損失を生むことにもなりかねないと思います。

 お互い人間は相寄って共同生活を営んでいるわけですから、互いに自分一人だけの目先の利害を考えていたのでは、共同生活をスムーズに運営していくことはむつかしいでしょう。やはり、自分の利益は当然考えるけれども、それと同時に他の人の利益についても考える。また目先のことことだけでなく将来にわたって益になることを考える。

 そのようにしてこそ、自他ともの利益というものが調和した姿において満たされ、ともどもに和やかに日々をおくっていくこともできるようになるわけです。しかしながら、お互いが素直な心をもっていない場合には、ついつい自分の目先の利害にとらわれて物を考え、事を判断するということになりがちのようです。

 たとえば、卑近なところでは、先般ある大都市でゴミ処理場の建設をめぐってトラブルがおこりましたが、これなどもその一例といえましょう。つまりゴミ処理場の必要性は認めるが、しかし自分たちの住む家の近くにはつくってほしくない、どこか他の地区のもっと遠くへ建ててほしい、などという住民の声が強くて、責任者としても処理場の建設用地が決定できず、事がなかなか運ばなかったということです。

 そしてそのために九年ちかくの長い間にわたって、ああでもないこうでもないということでトラブルが続き、住民たち自身もいろいろと頭をつかったり、悩んだり、互いに争ったりしたということです。お互いが自分の目先の利害にとらわれて物事を判断し、行動するところからは、結局、自分自身も社会全体としても大きなマイナスを招くことになると思われます。


第4条 感情にとらわれる


素直な心がない場合には、感情にとらわれ、
われを忘れて、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない


 素直な心というものが働かない場合には、物事を見、考える際に、ともすれば感情にふり回されるというか、感情にとらわれて事をあやまることが多くなるのではないかと思います。すなわち、人間というものには、よきにつけあしきにつけ感情の動きがあります。うれしいことがあれば喜び、腹が立つことがあったならば怒り、つらいことがあれば悲し むというように、さまざまな感情の動き、起伏というようなものがあります。

 そして人間はもともと「感情の動物である」などといわれるように、そういった感情に 左右されて動くといった傾向を少なからずもっていると思います。が、素直な心が働かな い場合には、そういう傾向がとくにつよくあらわれてくるのではないかと思うのです。

 ところが、もしそういう感情の動きにとらわれて物事を判断し、行動するようなことが あったとしたならば、やはりそこには適切な判断ができず、したがって思わぬあやまちを 犯すことになる場合も間々あると思います。そういうような例は、これまでの人間の歩みをふり返ってみても、枚挙にいとまがないと思います。

 たとえば、古今東西においてお互い人間は、くり返し他を傷つけたり命を奪ったりするという姿をあらわしていますが、そうした好ましからざる姿というか行為を生ずる原因の 大きなものの一つは、この“感情にとらわれる”ということがあるのではないでしょうか。つまり、なんらかのきっかけによって、相手に恨みや憎しみといった感情を抱いたような 場合、素直な心がなければその感情にとらわれてしまうわけです。

 そしてそういった憎しみ恨みを晴らしたいという考えのみに心奪われて、自分でもいろ いろと心を労し、心を悩ませるばかりでなく、ついには相手と争いをおこし、互いに傷つけあい血を流しあうといった、まことに不幸な姿をもたらすことにもなりかねないでしょう。

 ところがこの場合に、もしも素直な心が働いていたならば、そうした不幸な結果を生じることはさけられるのではないかと思います。というのは、素直な心が働いておれば、自 分の感情の動きというものも冷静に把握できますし、またそれにとらわれてしまうことの ないように、自分を失うことのないように、といった自制の心も働くでしょう。だから、結局、その憎しみや恨みを晴らすための好ましからざる行動に出るというようなことはさけられると思うのです。

 今日、お互いの身の回りにおいても、カッとして、逆上して人と争い、傷つけ殺してしまったとか、とかく感情にとらわれ、我を忘れて事を行なって失敗してしまったというような姿は、マスコミなどでも連日のように報道されています。こうした姿というものも、やはり一つには、素直な心が働いていないために感情にとらわれ、われを忘れてしまうというようなところから生じている面もあるのではないでしょうか。


第5条 一面のみを見る


素直な心がない場合には、物事の一面のみを見て、それにとらわれがちになってしまう


 お互い人間の精神面の苦しみ、悩みというものは、ときとしてみずからの命をたつほどに強く、深いものがあるようです。現に、今日この世の中においても、そうした悩みを抱き、絶望してみずからの命をたってしまったというまことに気の毒な姿がしばしばくり返されているのではないかと思われます。

たとえば、受験を前にした受験生が、自信をなくして自殺したとか、事業に失敗した人が絶望のあまり自殺したとか、あるいは失恋をしたとか人間関係がうまくいかないなどということで自殺したというような例が少なくないように思うのです。

しかしこうした不幸な姿というものは、やはりお互いの努力によってなるべく少なくしてゆかなければならないと思います。それでは、そういった不幸な姿に結びつく悩みとか絶望というものは、なぜ生じてくるのでしょうか。

これについては、もちろんそこにはそれぞれの事情があって、一概にはいえないと思います。また見方考え方もさまざまなものがあろうと思われます。けれども、総じていうならば、やはりそうした悩みなり絶望というものは、物事の一面のみを見てそれにとらわれてしまう、というようなところから生じてくる場合も少なくないのではないでしょうか。

だから、同じ一つの物事であっても、それに対して、いろいろな見方があり、さまざまな面から考えることができるわけです。だから、一見してマイナスと思われるようなことでも、実際にはそれなりのプラスがあるというのが世の常ではないかと思います。いってみれば、雨が降れば着物がぬれて困ると見る見方もある反面、畑の作物をうるおしてくれると喜んで見る見方もあるわけです。

ところが、そのうちの一面のみを見てそれにとらわれてしまうと、いたずらに心を悩ませたり、極端な場合は絶望してみずからの命をたつといったような不幸な姿にも陥りかねないわけです。

それではどうして、そういった一面のみにとらわれるような姿に陥るのかというと、それはやはり素直な心がないからではないかと思います。つまり素直な心がない場合には、往々にして一つのことにとらわれてしまったり、自分の考えとか感情にとらわれてしまいます。だから、ついつい物事の一面だけしか目に入らず、他の面まで見る心の余裕もなければ、また視野というもの自体がひらけなくなる場合が多いと思われます。

したがって、素直な心がない場合には、物事のさまざまな面を見、考えることができず、単に一面のみを見てそれにとらわれるといった姿に陥ることにもなりかねません。そしてそういうところから、ここに述べたようなさまざまの不幸な姿が生じることにもなってくると思うのです。


第6条 無理が生じやすい


素直な心がない場合には、
とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる


 “無理をしてはいけない”ということは、お互いの日常生活においてしばしばくり返しいわれていることではないかと思います。無理をしないということは、辞書によれば、道理に反することをしない、理由がたたないことをしない、行ないにくいことをしいてしない、というようなことですが、これはいってみればごくあたりまえのことのようにも考えられます。

 しかし、このあたりまえのことが、実際にはなかなか守られにくいようです。たとえば、お互いの日々の生活、活動の上においても信号が赤に変わりかけているのに無理して車を進ませるとか、能力以上の仕事を無理してかかえ込むとか、あるいは他の人に対して物事を無理じいするとかいったような姿は、しばしばくり返されているのではないでしょうか。

 そして、そういった無理によって、いったいどのような姿が生じているのかというと、それはだいたいにおいて好ましからざる姿に結びつく場合が多いように思われます。つまり、たとえば信号無視の無理をすれば事故につながるとか、能力以上の無理をすれば失敗してしまうとか、あるいは無理じいをして人の反発を買い、争いになってしまうとかいうように、往々にしてマイナスを生じかねないと思うのです。

 だからそういった無理はしない方がよい、ということは、これはだれでも一応は知っているであろうと思います。ところが、実際はなかなかそういう姿がなくなりません。これはいったいどうしてでしょうか。なぜ、そういう無理がなされるのでしょうか。

 これは、もちろん、一言ではなかなかいえないものがいろいろあるのだと思います。たとえば、その時の必要に迫られて、結果のマイナスなど考えてみる余裕がなかったため、無理を承知で無理をした、というような場合もあるでしょう。

 また、自分自身の意欲とか欲望にとらわれてしまい、たとえばかけごとで取り返しのつかない大損をするとか、遊びに夢中になって徹夜の不摂生をつづけるといったように、無理は承知だけれども、ついつい無理をする、また人に無理じいをする、というような場合もあるかもしれません。こういうように、いろいろな場合が考えられると思います。

 けれども、そういった場合を通じていえることは、結局のところ、素直な心がないということ、つまり素直な心が働いていないから無理というものが生じてくる、ということではないでしょうか。つまり、なにかの必要に迫られて心に余裕がなくなるというのも、これはいわば一つのことにとらわれた姿であって、素直な心のない姿であるともいえるでしょうし、また意欲や欲望にとらわれるという姿は、まさに素直な心のない姿そのものであるともいえるでしょう。

 すなわち、お互いが無理を承知で無理をするというような姿というものは、お互い素直な心をもたずに、いろいろなことにとらわれるというようなところから生じてくる場合が多いと思うのです。


第7条 治安の悪化


素直な心がない場合には、個々人がバラバラとなって
共同生活の秩序も乱れがちとなり、治安が悪化しやすくなる


 共同生活を営むお互い一人ひとりが、それぞれの生活、活動を自由にスムーズに進めてゆくためには、そこに秩序というものが必要になってくるわけですが、その秩序が十分保たれ、人びとが安心して生活を営める状態が、いわゆる治安の保たれているということだと思います。

 もしもそういう社会の秩序、治安というものが十分保たれていなかったならば、お互いは安心して日々の活動、生活を営むことができにくくなるでしょう。たとえば、ちょっと外出するという場合でも、治安がわるければいつどこでひったくりに会うかわからない、辻強盗にあうかわからない、あるいは暴力団の争いや爆破事件にあうかわからない、といったようなさまざまな心配、不安が出てくるわけです。

 こういう姿では、安心して外出することもできにくくなりますから、お互いの日々の生活、活動というものは、なかなかスムーズに進まないようになってしまうでしょう。そういう意味からいって、共同生活の秩序を保つ、よりよい治安を保っていくということは、お互い一人ひとりにとってきわめて大切なことだと思われます。したがって、お互いこの治安の大切さを十分に理解し、よりよき秩序、治安を保ってゆくことができるよう、つね日頃から十分に心がけてゆくことが大事だと思うのです。

 けれども、お互いが素直な心というものをもっていない場合には、その大切な治安というものが保たれにくくなってくるのではないでしょうか。というのは、お互いが素直な心をもっていなければ、共同生活の秩序もとかく乱れることが多くなり、事故や犯罪もふえて、治安が悪化しがちになってしまうと思うからです。

 すなわち、素直な心がなければ、物事の実相を見ることができません。したがって物事を判断する場合に、どうしても自分の利害とか立場などのみにとらわれがちとなってしまいます。そのために何が正しいのか、何をなすべきか、といったことがわからなくなり、したがって正しいことに毅然として従うという姿も見られず、めいめいがいわば自分勝手な考えをもって行動しがちになるのではないでしょうか。

 つまりみんながバラバラで、自分の思い通りに行動しようとするわけですから、共同生活全体の秩序というものが成り立ちにくくなってしまうわけです。それはたとえば遵法の精神なり、約束事を守るという態度が失われるという姿となってあらわれてくると思います。そして、各人が自分なりの考えとか欲望のみに基づいて物事を判断し、行動していくことがますます多くなっていくでしょう。

 しかもその判断や行動が自分では正しいと思い込んでいるわけですから、互いに衝突して譲らないということにもなりかねません。早い話が、交差点の信号が黄色になっても赤になっても自分の車は進むのだという人ばかりの社会であったら、どうなるでしょうか。たちまちのうちに車と車が衝突し、互いに傷つき、道路という道路は大混乱に陥るでしょう。そのように共同生活を律する約束事をお互いに守り合うという姿が全くなければ、共同生活が無法状態に陥り、治安が乱れに乱れるということにもなりかねません。


第8条 意思疎通が不十分


素直な心がなければ、率直にものを言うこともなく、
素直に耳も傾けないために、互いの意思疎通が不十分となりがちである


 ときおり、新聞などの報道でみる事件に、両親に結婚を反対されたので思いあまって自殺したとか、二人で心中したとかいった姿があります。そしてそういう記事をみますと、そのご両親などの談話として、「二人がそれほど思いつめていたとは知らなかった。こんなことになるくらいなら、結婚を許してやればよかった」といったようなことばがのせられていることが少なくないようです。

 これは、まことにいたましい、気の毒な姿だと思います。だからお互いに、こうした姿がおこってほしくはない、ということをだれもが考えるだろうと思います。ところが、実際にはくり返しおこっている、ということです。いったいどうしてこういった姿がおこるのでしょうか。

 考え方はいろいろあるでしょう。が、やはり一つには、そこに素直な心というものが働いていなかった、ということもそういう姿のおこる原因の一つではないでしょうか。というのは、お互いが素直な心をもっていない場合には、往々にして互いの意思疎通が不十分になってしまうと思うからです。

 つまり、お互いが素直な心をもっていなければ、いろいろなことにとらわれたり、こだわったりして、とかく率直にものが言えないといった姿にも陥りかねません。また聞く側にしても、自分なりの先入観や考えにとらわれがちとなって、相手の言うことを素直にありのままに聞くといった態度を見失いがちとなるでしょう。

 ですから、そこにとかく十分な意思疎通を欠くといった姿もあらわれてくるわけです。たとえば初めにあげた例でいえば、子は子なりに、「親たちはいくら言ってもどうせ理解はしてくれない。子の気持ちなど親にはわからないんだ。もういい、死んでやるから……」というように考えて、親の気持ちを理解しようとはせずに行動に走ってしまった、ということかもしれません。

 また親の方は親の方で、「まだ若くて生活力も十分にないうちに結婚すれば、必ず本人たち自身が苦労して、ゆきづまってしまうだろう。だから、今、二人が結婚することには反対だ。この親心がなぜ二人にはわからないんだろう……」という考えにとらわれて、本人たちの真剣さには十分考えが及ばなかったのかもしれません。

 しかし互いに素直な心があれば、少なくとも意思疎通がわるいための悲劇というものは、さけられるのではないでしょうか。けれども素直な心というものがない場合には、そうした意思疎通もとかく不十分となって、そこにさまざまの好ましからざる姿をもたらしかねないわけです。

 そしてそれは、単に家庭内の問題に限らず、会社などでも、また社会、国家といった大きな集団においても、およそ共同生活というものにおいて同じようなことがいえるのではないでしょうか。つまり共同生活にお互いの意思疎通が十分でないと、相手を理解しあうということも十分でなく、また、お互いに疑いをもったり不信感を抱いたりして、いろいろと好ましくない姿が生じてくることにもなりかねない、というわけです。


第9条 独善に陥りやすい


素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、
視野もせまくなって、往々にして独善の姿に陥りかねない


 お互い人間というものは、つねにあやまちなく物を考え、行なっているかというと、神様ではありませんから、なかなかそうもいかないようです。たとえ自分ではまちがいない、 正しいと思い込んでいたとしても、客観的にみれば、ずいぶん道を外れ、あやまった姿に陥っていたというような場合が少なくないと思われます。

 ところが問題は、そのあやまちを自分自身ではなかなか気づかない、気づくことができにくい、ということです。気づかないどころか、むしろまちがいない、これが正しいのだ、と決め込んでいる場合が少なくないわけです。これはまことに困った姿です。

 というのは、そういう姿では、もし仮に他の人びとからそのまちがいを指摘されたとしても、それを素直に受け入れることは少なく、往々にして、それをいわば非難や中傷であるかのごとく受けとりかねない、というおそれがあるからです。しかし、こうした独善の姿に陥ってしまったのでは、自分がまちがいを犯しているうえに、さらに他との摩擦、トラブルなどの好ましからざる姿をもたらしかねません。

 それではなぜこうした独善の姿が生じてくるのかというと、もちろん見方、考え方はいろいろあると思います。けれども、こうした好ましからざる態度、姿というものは、やはりお互いに素直な心が働いていないところから生ずる場合が多いのではないかと思われます。というのは、素直な心が働いていない場合には、やはりどうしても自分の考えのみにとらわれてしまい、それのみが正しいというように思い込みやすくなるのではないかと思うからです。

 そうした姿の例としては、例えばあのナチスドイツのヒットラーがあげられるのではないでしょうか。ヒットラーは私心にとらわれ、独善に陥り、大戦争をひきおこして、幾多の尊い人命を損ない、膨大な物資を破壊しつくすといった好ましからざる姿をもたらしました。

 また、今日、一つの主義思想を是として、それを尊ぶあまりに絶対視し、それ以外のものはみなまちがっているのだ、という考えに陥っている傾向も一部にみられるようです。が、こうした姿というものも、やはり素直な心のないところからおこる独善の姿の一つではないかと思われます。

 というのは、もし素直な心が働いていたならば、広い視野がひらけ、あらゆる角度から、物事を見、考えることができますから、ただ一つの主義思想にとらわれるといった姿に陥ることもなく、あらゆる主義思想のそれぞれの長所というか、それに含まれている真理を見出すこともできやすくなるでしょう。

 したがってそこには、百の思想を百とも生かすといったような、まことに好ましい姿ももたらされてくると思います。そしてそういう姿からは、いってみれば百の思想の百の真理がすべて生かされ、それによって、諸事万般にわたってのよりよき姿、一層の幸せの姿、 お互い人間の共同生活の向上というものももたらされてくるのではないでしょうか。


第10条 生産性が低下する


素直な心がない場合には、
いろいろな無駄や非能率が多くなって生産性というものが低下するようになる


 お互い人間のそれぞれの活動がスムーズに進められ、その努力にふさわしい成果が得られるところから、この世の中はしだいにみのりゆたかな姿をあらわし、共同生活の向上という好ましい姿ももたらされてくると思います。そしてそれは、ことばをかえていうならば、いわゆる生産性の高いところから世の繁栄発展がスムーズにもたらされ、お互いのよりよき共同生活というものも実現してくる、ということではないかと思われます。

 だから、この社会の各面各分野において、それぞれなりの生産性の向上を生み出していくということが、きわめてのぞましく、大切なことではないかと思います。

 けれども、お互いが素直な心をもっていない場合には、人それぞれの活動や共同生活の営みの上にいろいろとムダや非能率な姿が多くなり、そういう生産性の向上というものは得がたくなるというか、むしろ逆に生産性の低下といった好ましくない姿も生じてくるのではないでしょうか。

 なぜ、素直な心がないとムダや非能率がふえてくるのか。これは一つには、素直な心がない場合には、お互いに調和する心、ゆずりあう心といったものが低調になるからではないでしょうか。調和する心が十分にあれば、たとえ多少考え方のちがいなどがあったとしても、それをことさらに問題として互いに非難したり争ったりするようなことはさけて、ちがいはちがいとみとめつつ、和やかに物事を進めていくといった姿にもなるでしょう。

 したがって、衆知もあつまり、また、ムダも少なく非能率な姿も少なくなると思います。

ところが、反対に、調和する心がうすければ、ちょっとしたちがいであっても、それをことさら問題にして、いろいろなトラブルがおこることにもなるでしょう。そういう姿からは、いろいろとムダも生まれ、非能率にも結びついていくのではないでしょうか。

 しかも、素直な心がなければ、それぞれが自分の立場とか利害得失にとらわれがちになるでしょう。そうすると、やはりどうしても相手に対する配慮もうすくなってしまいます。 それで、相手に譲るべき場合でも譲らないとか、許すべきであるのに許さないとか、守るべき約束を守らないとか、あるいはまた何かにつけてとがめだてするとか、疑いの目でみたりするとかいった姿にも陥りかねません。

 こういうギクシャクした姿になった場合には、たとえば交渉ひとつするにしても、必要以上に説明や釈明をしなければならないというようなことになって、ムダや非能率に結びつき、往々にして生産性の低下ということを招きかねないのではないかと思われます。まして、問題などがこじれてケンカになったり裁判沙汰にでもなれば、生産性の低下は一層その度合を深めることになってしまうのではないでしょうか。

 このようなことを考えてみても、素直な心がない場合には、ムダな時間や費用が多くかかり、またいらざることに心を労し、頭をつかうなどして、生産性が非常に低下するのではないかと思うのです。





素直な心を養うための実践10ヵ条


第1条 つよく願う

素直な心を養うためには、まず素直な心になりたいという
つよい願いをもち続けることが必要である

 お互いが素直な心を養おうとする場合には、やはりなんといってもまずはじめに、素直な心になりたい、というつよい願いをもつことが必要だと思います。もちろん、素直な心になればなかなかよさそうだから、素直な心になれればいいなあ、と思うけれでも、少しは素直な心に近づくかもしれません。けれども、やはりその程度では十分に素直な心を高めていくことはむつかしいでしょう。

 やはり何事においても、よりよきものを生み出そうとか、事をなそうといった場合には、そこにそれなりの志というものをしっかりもって、つよく願い、のぞむことが必要だと思います。

 一枚の絵を描くにしても、まあ適当に描けばそれでよいなどと考えていたのでは、ある程度のものはできても、それほどすぐれた作品は生まれないでしょう。それに対して、自分は一生のうちでも最高の作品を描き上げるのだ、ぜひ快心の作をものにしたい、といったつよい願いをもっていたならば、やはりそれにふさわしいものが生まれてきやすいでしょう。

 もちろん、つよい願いをもつといっても、心の中にそういうものをもっておりさえすればよい、それでよい結果が自然に生まれてくる、というわけにはいかないだろうと思います。やはりつよい願いを心にもったならば、それは実際に自分の態度や行動となってあらわれてくると思います。いいかえれば、その願いを実現するために身も心もそれに打ち込むようになってくると思うのです。

 だから、会心の作をものにしたいと願うのであれば、たとえば自分の腕を徹底的に磨き直すというようなこともするでしょう。また、他の多くのすぐれた作品を見て真剣に学ぶことにもつとめるでしょう。

 そして自分なりに日夜いろいろと構想をねったり、さまざまな工夫をこらしたりもするでしょう。さらには、雑念をはなれるとか、いわば寝食を忘れて作品の製作に没頭するというような真剣な態度も出てくるのではないかと思います。そういう打ち込んだ態度を保っていくところから、はじめて魂のこもった立派な作品も実際に生まれてくるのではないでしょうか。

 こういうことは、単に絵を描く場合だけに限らず、他の多くの場合にもあてはまるのではないかと思いますが、お互いが素直な心になろうとする場合においても、やはりまず素直な心になりたい、というつよい願いをもつことからはじめなければならないと思うのです。

 もちろん、そういうつよい願いというものは、はじめの一時期だけもっていればいいというものではありません。つまり、一度だけつよく願ったから、あとはひとりでに素直な心に近づいていく、というわけではないと思います。やはりつねにというか、たえずというか忘れることなくその願いをもちつづけてゆくことが必要だと思います。


第2条 自己観照

素直な心を養うためには、たえず自己観照を心がけ、
自分自身を客観的に観察し、正すべきを正してゆくことが大切である。


 “我執”ということばがありますが、お互い人間は、意識しないまでも、つい自分自身にとらわれるというか、自分で自分がしていることを正しく評価できないことが多いのではないでしょうか。

 もちろん、人はよく「自分のことは自分が一番知っている」といいます。たしかに自分の思いは、他人にはうかがいしれない場合が多いのですから、他人よりも自分のほうがよく知っているはずです。しかし、自分の考えや行ないが果たして独善でなく、道理にかなっているのかどうか、社会的に正しいことかどうか、人情の機微に適したものかどうかを評価する段になると、これはまた別だと思うのです。

 むしろその点については、他人のほうがよく知っている場合が少なくないでしょう。それはやはり、人間というものは、どうしても知らず知らずのうちに自分中心に、あるいは自己本位にものごとを考えがちになって、他人からみたらずいぶんおかしいことでも、一生懸命に考え、それを正しいと信じている場合が多いからではないでしょうか。

 もしそのように、自分自身にとらわれた自己本位の考え方を押し通そうとしたら、やはり物事が円滑に運ばないでしょう。他人が傷つくか、あるいは自分が傷つくかするでしょうし、ましてその考えが社会正義なり共同の幸せに反することならば、やがては自分の身を滅ぼしてしまうことにもなりかねません。しかもその人が、社会の指導的な地位に立っていたならば、単に自分を滅ぼすだけでなく、指導される人びと全体を誤らせてしまうことにもなってきます。

 かつてのヒットラーやムッソリー二、あるいは日本の軍部指導者のなかにも、こうした傾向が一部あったことは否定できないと思うのです。つまりそういう人たちは、自分の考えを絶対に正しいと信じこんで、知らず知らずのうちに自己本位の勝手な考えなり行動に陥っていることに気づかなかった。それが自分だけでなく周囲の多くの人びと、あるいは国全体を迷わせ、そこに多大の損失と不幸を招くことになってしまったのだといえましょう。

 こうした経験は、お互いに多少とももっているのではないかと思いますが、それではどうすれば自分自身にとらわれない素直な心になれるのかといえば、その一つとして「自己観照」を心がけたらどうかと思います。これは、いわば自分の心をいったん外に出して、その出した心で自分自身を眺め返してみる、つまり客観的に自分で自分を観察することを心がけたらどうかということです。

 昔から“山に入る者は山を見ず”とか言いますが、山の本当の姿は、あまり山の中に入りすぎるとわからなくなってしまいます。山の中にはいろいろな草木もあれば、石ころもある。それらも山の一部ですが、しかしそれだけが山の姿ではありません。山の全貌を正しく知るには、やはりいったん山から離れて、外から山を見るということもしなければならないと思うのです。

 


第3条 日々の反省

素直な心を養うためには、毎日、自分の行ないを反省して、
改めるべきは改めてゆくよう心がけることが大切である

 私たちが、何か物事を行ない、それに成功していくために大切なことの一つとして、反省ということがあげられると思います。こういうことをしてみたいと考えて、それをやってみる。そうすると、うまくいくこともあるでしょうし、そうでないときもあると思います。うまくいったらうまくいったで、どうしてうまくいったかを考えてみる。うまくいかなければ、どこにうまくいかない原因があったかを考えてみる。

 そのような反省をしては、その結果を次のときに生かして、失敗をより少なくし、よりうまくいくようにしていくことが大切だと思います。そういう反省なしに、ただ何となくやっていたのでは、同じ失敗をくり返したり、なかなかうまくいかないということになると思うのです。

 昔の中国の名言に「治にいて乱を忘れず」ということばがあります。これはつまり、おだやかで平和な満ち足りた状態にあるからといって安心しきって油断してはいけない、いつまた情勢が変わって危機に陥るかもしれないのだから、つねにそれに備えて心をひきしめておくことが肝要である、というようなことをいっているのだと思います。

 たしかに、そういった油断のない態度、心がけというものを保っていくならば、個人としてもまた団体としても国家としても、つねにあぶな気のない姿を保持していくこともできるのではないかと思います。そして、こういう名言がどうして生まれたのかを考えてみますと、考え方はいろいろあるでしょうが、一つにはやはり過去をふり返って十分に反省をしたところから生まれてきたとも考えられると思います。

 すなわち、個人でも団体でも、国家の場合でも、事がおこってゆきづまるとか、危機に直面してそれに打ち負かされてしまったとかいうような姿をくり返しているわけです。そこで、なぜそういう姿がおこるのかを深く反省したところ、しばらく好調な姿が続いたのでそれになれてしまい、なすべき努力を怠り、必要な心くばりを忘れてしまっていた。その結果、時代の流れ、情勢の変化に相応ずることができないほど、みずからの力が弱まっていた。それでゆきづまってしまったのだ、というようなことがわかったわけでしょう。

 そういう反省から、「治にいて乱を忘れず」という名言も生まれてきたのではないかと思いますが、そのように反省というものは、みずからのあやまちを防ぎ、よりよき明日を迎えるためにきわめて大切なことだと思うのです。だからそういう反省は、事がおこってからするよりも、いわば日常一つひとつの事柄について反省を加えるということが必要ではないかと思います。

 したがって、私たちが素直な心を養い高めていこうという場合も、やはり日々自分を反省してみることが大切ではないでしょうか。「今日一日自分は素直な心で人に接し、物事をやっただろうか。あの時自分は、腹が立っていて、ついその怒りにとらわれていたのではないだろうか。ああいう意見をいったけれども、あの考えは少しかたよっていなかっただろうか」そういったことをいろいろ反省してみて、次の時には、なるべくそうならないように心がけていくわけです。

 


第4条 つねに唱えあう

素直な心を養うためには、素直な心になるということを、
日常たえず口に出して唱えあうようにしてゆくことが大切である

 お互いが素直な心の大切さをよく認識し、素直な心になりたいとつよく願いつつ日々の生活を営んでいくところから、しだいに素直な心が養われていくのではないかと思いますが、実際には往々にして日々の忙しさにとりまぎれ、素直な心になることをつい忘れてしまうということもあると思われます。

 そこで、お互いが素直な心になるということを忘れてしまうことのないように、折にふれ、ときに応じて、お互いに“素直な心になりましょう”とか“素直な心になって”ということを、いわば一つの合言葉のように口に出して唱えあうということが必要ではないかと思います。

 たとえば、朝おきてお互いが顔を合わせたならば、“おはようございます。きょうも素直な心で過ごしましょう”とあいさつをかわす。仕事の打ち合わせをする前には、“それでは素直な心で検討しあいましょう”とみんなで唱えてから話を始める。また、どういう話をする場合でも“素直に考えたならば、こういうことになるのではないでしょうか”とか、“素直に見て、このようにいえるでしょう”とかいうように、たえず互いに素直ということを口に出しつつ話を進める。

 こういうように、いってみれば寝てもさめても、いても立っても、日常のすべての会話、行動の中において、たえず素直になるということを念頭におき、それを口に出して唱えるわけです。仏教においては、“念仏三昧”というようなこともいうそうですが、この場合はいわば“素直三昧”というようなことにもなるでしょう。しかもそれは、自分一人でも素直三昧をすると同時に、互いにそういう姿を生み出していくわけです。

 そういう素直三昧というような姿をお互いがともどもにあらわしてゆくならば、何を考えるにも素直に、何をするにも素直に、というようにおのずと心がけあってゆくようにもなるでしょうから、そこからしだいに、お互いともどもに素直な心で物事を考え、判断するような姿に近づいていくこともできるのではないでしょうか。

 もちろん、ただそういうように口に出して唱えれば、それで素直な心になれるのかというと、必ずしもそうではないと思います。口に出すということは、それを忘れずに心がけてゆくためであって、そういう形にともなう実のある内容がなければならないと思います。その実のある内容をそなえていくためには、やはり素直な心の意義というものを十二分に理解して、素直な心そのものを養っていくことをたえず心がけていくことが大切だと思うのです。

 そのようにして、実のある内容をともないつつ、しかもたえず形にあらわすというか、お互いの合言葉としてつねに口に出して素直になるということを唱えるようにしていくならば、お互いに素直な心になるということを忘れることもなく、たえずそれを心がけてゆくことができるでしょう。だから、そういうことも、お互いが素直な心を実際に養っていくために大切なことの一つになってくるのではないかと思うのです。


第5条 自然と親しむ


素直な心を養っていくためには、心して自然と親しみ、
大自然の素直な働きに学んでいくことも大切である

 お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つに、自然に親しむというか、大自然のさまざまな営み、姿というものにふれるということもあるのではないでしょうか。自然の営みというものには、私心もなければ、とらわれもないと思います。いってみれば、文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが推移していると思うのです。したがって、そういう大自然の営みの中に身をおいて、静かに自然の形を見、その動きを観察していくならば、しだいしだいに素直な心というものを肌で理解し、それをみずからの内に養っていくということもできるようになると思うのです。

 たとえば、大自然の中に遊ぶ鳥や獣の姿を見つめてみるのもいいでしょう。鳥たちの無心の動作、そして獣たちの何気ない日々の行動を見るならば、そこに素直な心を養う上での何らかのヒントもつかめるのではないでしょうか。

 親子の間の姿にしても、動物たちの場合は、人間とはまたちがった愛情の細やかなところがあるともいわれます。人間の場合は、子すて子殺しといったようにむしろ今日では一部でいろいろと問題もおこりがちとなっていますが、動物の場合はおしなべて、自然のままに素直に愛情を発露させるといった姿がみられるのではないかと思われます。

 したがって、そういった自然な動物の姿にふれていくところから、素直な心を養っていく上でのなんらかの参考となるものも得られるのではないかと思うのです。それは、もろろん動物のみに限らず、自然の山野にあふれる植物、さらには野や山や川や海などのあらゆる大自然の面についてもいえることではないかと思います。そういった自然の姿というものは、やはり私心なく、なんらのとらわれもなく、自然のままに、素直に日をおくっているわけです。

 したがって、そういった自然のあらゆる面につねにふれていくことによって、とらわれのない、素直な心を養っていく上でのいろいろなヒントを得ることもできやすくなっていくのではないでしょうか。いってみれば、ただ一輪の草花にしても、私心なく、自然に、素直に花を咲かせているわけです。

 そういった花の姿をみて、もちろん何も感じないという人もいるでしょうが、しかし、素直な心になりたいというつよい願いをもっている人の場合には、あるいはそこに何らかの偉大なヒントを見出すかもしれないと思うのです。

 そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための一つの実践として、このように大自然の営み、自然の姿というものにふれて、その素直さに学んでいくということも大切だと思います。

 



第6条 先人に学ぶ

素直な心を養っていくためには、
先人の尊い教えにふれ、それに学び、帰依していくことも大切である

 お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つに、幾多先人の尊い教え、貴重な考えといったものを学ぶということもあるのではないでしょうか。すなわち、今日、われわれは、幸いなことに過去の偉大な人びとの考えや行ないというものを、書物等によって知ることができます。そしてそういった先人の考えや行ないの中には、素直な心のあらわれと考えられるもの、素直な心そのものだと考えられるようなものも、あるのではないかと思われます。

 もちろん、それらの考えや行ないが、直接“素直な心”ということばで説かれている場合はほとんどないだろうと思います。けれども、お互い人間の心をゆたかにしたとか、悩み苦しむ人びとに光明、救いを与えたとか、よりよき共同生活を実現するために努力したとか、人間として生きてゆくべき道を的確にさし示したとかいったように、人びとの幸せを高めるために貢献した先人の考え、行ないというものは、そこにおのずと素直な心が働いていたとも考えられると思うのです。

 というのは、そういった考えや行ないというものは、やはり私心にとらわれることなく、物事の実相を見て何が正しいか何をなすべきかをつかんだとろから生まれてきたものだともいえるのではないでしょうか。だから、素直な心ということばで説かれてはいなくとも、それはまさに素直な心のあらわれた姿であり、素直な心になることの教えであるということもいえると思うのです。

 したがって、そういう偉大な先人の方がたの考えや行ないというものを学んでいったならば、知らず知らずのうちに素直な心が養われていくということもあるでしょう。またそこまでいかなくても、素直な心を養っていく上での貴重なヒントを得ることはできるのではないでしょうか。

 お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つには、このように幾多の先人の方がたの尊い教え、考え、行ないというようなものを学んでいく、ということもあるのではないでしょうか。だから、そういった先人の方がたのことばを記録した書物、その考えや行ないについて書かれたもの、またそれらの方がたの書きあらわされた著述、そいうものを熟読玩味するとか、あるいはまた正しい宗教心を培い、よりよき宗教活動に参加していくといったことも、素直な心を養っていくための一つの実践になると思います。


第7条 常識化する

素直な心を養っていくためには、
それを養うということ自体を、お互いの常識にすることが大切である

 お互いがともどもに素直な心を養っていくという姿をあらわしてゆくためには、みんなが素直な心の大切さを十分認識し、素直な心を養いあうことの必要性を正しく認識することが必要不可欠ではないかと思います。いってみれば、素直な心を養うということが、お互いの常識の一つになるということが肝要ではないかと思うのです。

 たとえば今日、お互い人間として、ある程度の教育を受け、学問を身につけるということが一つの常識になっているとすれば、それと同じように、“人間ならだれでも素直な心を養わなければならない”ということを一つの常識にするわけです。

 もしも実際にそういうことが常識となったならば、たとえば小さな子どもの頃から、両親や周囲の人たちはみな、どのようにしてこの子に素直な心をつちかってゆけばよいか、といったことをある程度真剣に考えるのではないでしょうか。

 したがって、幼児教育の内容の中に、素直な心を養うという一つの項目が必ず入っていなければならないということになるかもしれません。また義務教育の過程においても、基礎教育の一つとして素直な心をつちかうという内容が大きな比重をもって加味されてくるでしょう。またさらには、子どもたちの本などにも、素直な心をとりあげたものや、そこまでいかなくても、素直な心になりましょうという呼びかけのことばがしばしば出てくるようになるでしょう。

 もちろん、家庭においても、家族同士が互いに素直な心を養い、素直な心で日々の生活を営んでいくようにつとめると思います。家族のうちのだれかが素直ならざる考え方、行動をしたならば、みんなでこれを改めるよういろいろと心を配り、協力しあう、といった姿も生まれてくるのではないでしょうか。

 さらにそれでも素直な心が養われていきにくいという場合には、「素直道場」というか、素直な心を専門に養うための一つの機関ができるかもしれません。この素直道場には老若男女を問わず、だれでも入門できるようにするわけです。そして三ヵ月なら三ヵ月の間、素直な心というものについてあらゆる角度から勉強し、認識、理解を高めていくわけです。そのようにすれば、たとえ素直な心が足りないという場合でも、それをある程度補うこともできるわけです。

 素直な心の大切さ、素直な心を養っていくということがお互いの常識となったならば、こういった姿のほかにも、いろいろと素直な心を養うことを促進するような姿があらわれてくるのではないかと思います。つまり、先にあげた子どもの本以外にも、おとなの本、さらにはラジオやテレビや映画などにおいても、いろいろな形でとりあげられるのではないでしょうか。

 たとえば、これまでしばしば、人間の姿、生き方をとらえた小説や演劇において、愛とか憎しみとか、悲しみや怒りがとりあげられてきました。それと同じような観点から、この素直な心がとりあげられるということも考えられるのではないかと思います。すなわち、愛を一つのテーマにした小説があるとするなら、素直な心をテーマにした小説もまたいろいろと考えられるのではないでしょうか。そしてそれは、愛をテーマにしたものより以上におもしろく、また感動的なものになるかもしれないと思います。

 こういったように、素直な心を養っていくということがお互いの常識になったならば、社会のあらゆる面において、さまざまな形で素直な心がとりあげられ、しかもそれを養い高めてゆくことがいろいろな面で強調されるようになってゆくと思います。したがって、そこにはおのずと、お互いの素直な心が養い高められてゆくといった姿もあらわれてくるのではないでしょうか。

 このようなことを考えてみますと、お互いが素直な心を養っていくためには、この素直な心を養っていくこと自体を、つまり“人間としてだれしもが素直な心を養っていかなければならないものなのだ”ということを、お互いの一つの常識としていくことが、きわめて大切だと思うのです。

 


第8条 忘れないための工夫

素直な心を養うためには、
素直な心になることを忘れないための工夫をこらすことも必要である

 お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つは、素直な心を養っていくということを決意し、その決意を忘れぬよう保ちつづけてゆくということではないかと思います。いかに強い気持ちをもってした決意であっても、日がたてばうすれてゆくのが人の心というものです。また、たとえうすれていく度合が少ないという場合でも、四六時中、ありとあらゆる考え、態度、行動の中に素直な心が働くよう心がけるということは、なかなかふつうではできにくいことではないかと思われます。

 そこで、そういった姿に陥ることのないように、いろいろな工夫が考えられるのではないでしょうか。たとえば、素直な心になるということを何か物に結びつけ、その物をつねに身につけておく、ということも考えられるのではないでしょうか。胸につけるバッジならバッジでもいいでしょう。「素直バッジ」とでもいったバッジをつくって、それをつねに胸につけておき、それによって素直な心になることを忘れないようにするわけです。

 それからまた、そういう「物」と同時に、ある一つのしぐさというか動作を工夫して定めるということも考えられるかもしれません。もちろん、そうした動作をしたからといって、つねにのぞましい心持ちとなって、効果をあげるとは限らないでしょう。しかし、それをするとしないとでは、やはりそれなりのちがいが出てくるのではないでしょうか。

 したがって、お互いが素直な心になりたい、素直な心で物事に処していきたいという場合でも、何か一つの定まった動作をする、というようにしてみたらどうかと思うのです。その動作をすることによって、みずから素直な心になろう、という思いが浮かんでくるわけです。だからその動作を一つの習慣として身につけるようにしたならば、どういう場合にもその動作が出てきて、あたかも神仏に手を合わすのと同じように、それによって素直な心になるための実践を忘れないようにしていくことができるのではないかと思います。 このように、お互いが素直な心になるということを忘れずに日々をすごしてゆくための工夫というものは、考えれば次つぎと出てくるように思われます。

 そして、お互いがそれぞれなりの工夫をこらして、素直な心になることをつねに忘れずに考えていくようになったならば、お互いの素直な心というものも一歩一歩、養い高められていくようになるのではないかと思います。


第9条 体験発表


お互いそれぞれの
素直な心の実践体験の内容を発表しあい、研究しあってゆく

 お互いがそれぞれに素直な心の意義、内容というものを十分に理解し、そして日々の生活、活動をつねに素直な心で営んでいくよう心がけていったならば、物事を素直な心で見、考えるという姿もしだいに培われてくるのではないかと思いますが、そういう姿を助成促進させるために大事なことの一つに、「体験発表」ということがあるのではないかと思います。

 それはどういうことかというと、お互いが自分なりに素直な心で物を見、考え、行なったと考える内容をそれぞれに発表しあって、ともどもに参考にしあうと同時に、あわせてその発表された内容を互いに検討しあい、素直な心になるということをさらに深くきわめていく、ということです。

 お互いそれぞれの立場とか、生活、活動の内容はさまざまに異なっています。したがって、同じ素直な心を心がけ、実践したとしても、その実際の形というか内容というものは、いろいろとちがったものになるわけです。ところが、お互い一人ひとりの生活、活動の範囲にはおのずと限りがあります。だから、自分が素直な心の実践を心がけ行なった内容は自分でわかりますが、他の多くの人びとの実践体験の内容というものはわかりません。

 そこで、お互いがそれぞれの体験をもちよってその内容を発表しあうならば、他の多くの人びとの実践内容を知ることができると思います。そうすれば、自分では気づかなかったこともわかるでしょうし、いろいろの示唆を得ることもできるのではないでしょうか。

 この体験発表の場において、みずからの実践内容の是非を他に問うというか、広く意見を求めて、そしてそれを参考にしつつ、さらに素直な心を養い高めていくよう心がける、ということもきわめて大切だと思います。さらにまた、自分自身の体験について自分で検討することは非常に大事なことでしょうが、それとあわせて、こういう体験発表の場で他の多くの人びとの体験もきき、それを検討してみるということも、素直な心を養い高めていく上で、非常に役に立つ大事なことではないでしょうか。

 そういうようなことを考えてみると、素直な心についての体験発表の会合をもつということは、お互いが素直な心を養い高めていくために、いろいろな点から、きわめて大切であるといえましょう。


第10条 グループとして


素直な心を養っていくためには、
互いに素直な心を養う仲間同士として協力しあっていくことが大切であ

 お互いが素直な心を養っていこうとする場合、一人ひとりが個々にいろいろな工夫をし、実践をしてゆくといった姿もあると思います。そしてそういう姿というものも、素直な心を養っていく上で非常に大切なものではないかと思うのです。

 しかし、そういうように個々バラバラな姿である場合においては、ときとして素直な心になろうという思いを忘れたり、また忘れていなくてもその心がけを実践することを怠ったりというように、どちらかというと素直な心を養っていこうという意気込みなり態度が弱まりかねない面もあるのではないでしょうか。人間というものは、自分で自分を甘やかすというか、そういった点に一面の弱さがあるのではないかと思われます。

 そこで、そういう姿に陥ることのないよう、集団でというか一つのグループをつくって、素直な心をともど もに養っていくことも非常に大切なことではないでしょうか。つまり、「素直な心を養う仲間」「素直な心の 実践グループ」とでもいったものをつくるわけです。

 そういった素直グループができたならば、そのグループとして互いに素直な心を養っていくことを決意し誓うわけです。そして、グループ員は互いに、一日もはやく、少しでも高く、素直な心になることができるように、協力しあうのです。

 また、グループ員の言動についても、それが素直な心からのものであるかどうかが、折にふれて他のグループ員から助言されるでしょう。そのことによって、もしかりに自分をつい甘やかして素直な心を忘れたような言動をとってしまっていた場合でも、すぐにそれを反省し、改めていくこともできると思います。

 その助言は、もちろん過去の言動を反省するためのものばかりではなく、これからどうやって素直な心を養っていくかということについてのそれぞれの工夫を交換しあう、といった面もあるわけです。グループ員同士は、「素直な心を養う仲間」なのですから、あらゆる機会をとらえて、互いに素直な心になっていけるような配慮をしあい、工夫をこらしあい、実践をしあってゆくわけです。

 そのようにするところから、お互い一人ひとりが手をとりあって素直な心をたゆみなく養い高めてゆくといった、まことに好ましい姿も生まれてくるのではないでしょうか。