滝沢村史 より抜粋

 チャグチャグ馬コ
   あ はじめに
 奥羽に牛馬が入って来たのは、あまりはっきりとしないが、養老
二年(七一八年)に蝦夷地から千匹の馬が進献されているから、相
当の馬産があったことが推定される。
 奈良朝になって、全国に官営牧場が設置され、軍馬や駅馬が飼養
されているが、奥羽には設置されていない。その後田村麻呂が関東
から良馬を奥羽に移し、改良に当ってから、一層良馬が出来るよう
になった。
 前九年の役や後三年の役、及び源平合戦に岩手県の良馬が活躍し
たことは余りにも有名である。
 南部藩では、牧場を経営して盛んに奨励したから、益々良馬を産
出した。大閣秀吉・徳川家を始め、諸国の大名が南部の名馬を買い
求めたから全国にその名がひびき渡った。
 南部藩は本村の姥屋敷を放牧地に利用している。
 日本国内の各大名は、馬を軍用に、あるいは駅伝用に使用したが
農家は最大の能率を挙げる道具として馬を利用している。すなわち
羅(ぜり)市を通じて移出する一方、運搬のみならず稲を作るのに、五反歩
に馬一頭を飼養しているから、馬の頭数によって、耕作反別が幾ら
であるかが、自ら明瞭になっていた。従って農家にとって耕作と推
肥に欠くことの出来ない絶対に必要な家畜の最大のものであった。
しかしながら死馬も自由に処理出来なかったほど厳しい馬政制度の
もとに飼育しなけれぱならなかったから、当時の農民の苦悩は並大
抵のものでなかったことであろう。



   い チャグチャグ馬コのはじまり
 文禄元年(一五九二年)第二十六世南部信直が豊臣秀吉の許可を
得て盛岡築城にとりかかって四年たった慶長二年(一五九七年)同
五月五日鳥谷源右工門と申す者三戸より駒二匹をひいてここに来た
ところ晴天俄かに曇り、空中に声あり。 「我は是れ駒ケ岳に往む蒼
前なり爾今、この鬼古里に鎮座して(それまでは姥屋敷に創建)天
が下の牛馬の災難を除き、諸願成就守護すべし」との御詫宣に依っ
て勧請したと宝暦(一七五一-六四年)安永(一七七ニー八一年)
の神社由緒に述べてある。従って蒼前社は馬匹育成、医療の守護神
で、古来南部領を始め、越後・信濃方面に多く祖られてあった産業
神である。

 また、一説には、慶長二十年(一六一五年)に和賀郡沢内村の
新田(につた)力助という人が、旧五月五日の端午の節句に、馬で田の代かき
をしていた。当時端午の節句には、農作業を休み、特に牛馬には安
息を与えるならわしであったが、力助は部落の慣習を無視して、田
の代かきを始めた。ところが馬がどうしても動かない。棒で尻をた
たいたところ、馬が狂うたようにかけ出し、山伏峠を越え、十五里程
離れた滝沢村の鵜飼まできて、鬼越の山を登る途中に疲れて立ち止
まったまま死んでしまう。そのときまで、すっかり晴れていた空が
急に曇りだし、雲の中から大声が聞えて来た。 「私は蒼前である。
これからは鬼越の山において、牛馬の災難を除き、願いは何でもき
いてやる」といった。死んだ誓は力動のものでなく、沢内村川舟の
田吉右衛門が飼っていた毛並の美しい自馬で、蒼前の徳を慕い、
あわれみを乞うために来たという説もある。

 また、吉田芳哉氏は『奥羽史談』第五二号に述べている。 「和賀
沢内に、此の地より売られた馬が酷使に耐え兼ね逃げ帰り鬼越峠に
於いて立往生したと……そして此の馬はこの地に新牧(あらぎき)を屋号とする
旧家、小笠原家産出の馬として現在も小笠原家に家宝とする馬匹災
難除けの守札の版木があって門外不出とか。猶この版木の製作年代
は享保二年(一七一七年)五月と称せられているが、田かき姿で仲
々の逸品である。現在伝承されている馬装束は、南部藩政の寛文年
間(一六六一年)頃の様式を源にしたもので、時代の推移によって
多少変化はしているが、概ね古式を維持しており、現存する古いも
のでは寛政年間(一七八九年)頃のものが若干残っている。」
 また、小笠原家に伝わる『小笠原氏由緒系図』には「利幹公御代
享保六年家督二云 利直公盛岡御城築以来 鳥谷氏厨川通鵜飼村二
居住又云孫六ト申召仕ヲ以同村ノ内持地田畑披立ス 其頃地遺ノ馬
也ト云鬼越山馬頭社五月四日代ヲ撹候馬駈出今ノ社ソ所二行立死
セシトゾ」という文面があり、立往生したのは享保六年(一七一二
年)五月四日で、馬は滝沢村鵜飼の鳥谷源右工門の馬という。
 小笠原家は南部第十代茂時公の家臣徒頭、小笠原半助の子孫で、
藩禽により今の滝沢村鵜飼で、農耕に従事していた。
 こうしたなかで、蒼前神社の別当をしていた鳥谷賃に跡継ぎが絶
え、同氏の娘が小笠原政右衛門に嫁していた関係から同神社の別当
を継承した。明治二十五年、盛岡に転住するまで社の管理をし、現
在、小笠原さんが保存している版木によってお守り札を作り参詣人
に配っている。

 以上のような伝説がある。ともかく部落民はこれをきき、馬をねん
ごろに葬り、その場所に小さた神社をたて御蒼前の神として信仰を
した。蒼前とは、大昔、東北地方に住んでいた人の名で、不毛の地
を開き、農耕技術を教えるなど地域のためにつくし、死後農業神と
してあがめられたという。蒼前は身体全体が自色で、足だけが黒い
いわゆるあし毛の馬にまたがった衣冠束帯姿の騎馬像である。それ
から毎年旧五月五日には近郷の農家の人々は一日仕事を休み、馬に
飾りをつけ、朝早くから鈴の根も勇ましく、馬をつれて御蒼前参りを
して、牛馬の無病息災を祈った。チャグチャグ馬コの本然の姿は、
お参りのため、夜中に家を出発し、朝露を踏んで夜明け前に参拝を
すますのである
   官沢賢治の歌に
  夜明けには
  まだ間あるのに下の橋
  ちゃんがちゃんが馬コ
  見さ出はた人。
  ほんのぺやこ
  夜明げがかった雲の色
  ちゃんがちゃがうまこ
  橋渡て来る。
  いしょけめに
  ちゃがちゃが馬こはせでげぱ
  夜明げの為か
  泣くだぁいよな気もする。
  下のはし
  ちゃがちゃが馬こ見さ出はた
  みんなのながさ
  おとともまざり。
とあり、夜明け前に盛岡以南の多くの馬も、下の橋を渡って、滝沢
村のお蒼前さんに向ったことが明らかである。
 いずれにしても馬産地として知
られた郷土の人々が、牛馬の無病
息災と五穀豊穣を祈って始まっ行
事である。
 うチャグチャグ馬コの語源
 この稚拙た呼び名の語源は、馬
の首の下についていた径二十セン
チ位のドーナツ型の鳴輪と装具の
いたるところにつけてある指先大
の小鈴とのハーモニーから来た音
による奄ので、馬が早く走れば、
チャングチャングと聞えるところ
から、称呼が生れたものであろ
う。首輪の響はかなりな遠方まで
響くから、狼の多い当時は、それ
からの災害を免れたことであろう。

   え 装  束
 馬事研究家の山吉敬造氏は次のように述べている。
 チャグチャグ馬コのはなやかな装束の基本は、小荷駄装束という
馬装である。
 小荷駄というのは、昔の軍列の後方に従った輪送隊で、その隊馬
を小荷駄馬といい、その馬装は従って、軍用の馬よろいから生れた
ものであり、その渕源はシベリヤ・スキタイ文化(BC一五OO)
にさかのぼる。チャグチャグ装束の威(おどし)編みの編み方は、スキタイ馬
装のそれと全く同じである。
 南部の殿様の参朗交代のときの大名行列には常に数十百頭の小荷
駄馬が従った。もちろん、何万石は何頭との規定があったが、南部
侯の場合は、小荷駄馬の大半が諸侯への進物馬でもあったから員数
外にふくれた。
 当時、小荷駄方御手伝という賦役があり、村方馬肝入から申し上
げて、近郊十力村の篤農家が行列に奉仕した。無上の光栄で、お貸
し下げの装束などはもちろん大切に取り扱われ、お役交代の際には
お下げ渡しをいただいた者などもあった。
 ところが、世の中が元禄時代以上はでやか、かつルーズになった
寛政のころになると、旧五月五日端午の節句恒例の鬼古里お蒼前さ
まへのお参りに、自慢のお下げ渡しをいただいた小荷駄装束をつけ
る者があらわれて、たちまち大流行になった。当然おとがめの沙汰
もあったが、また半面神事でもあり、さらに姥屋敷高原一帯が、殿
さまの馬の放牧地だったところから、丁度放牧期直前に行われる蒼
前祝いの祭りは盛ればさかるほど、放牧地にはびこる熊や狼を追払
う効験などもあったので、適当におめこぼしの次第にもなった。
 馬は大変な装束を全身につける。すなわち、鼻飾り・前飾り・首
飾り・胸がい・尻がい・腹あて・結い上げ・吹き流し・二布(ふたの)ぶとん
・鳴り輪・小鈴などで全身をおおい、尻がいの上部に皮革製の当革
があり、真鐵金具で各家の定紋が美麗且つ堅固に打ち出されている
のは、往時戦陣における防具の名残りを留めたものであろう。鞍は
元来藩用小荷駄馬の名残で鋲打ち木製の頑丈た荷鞍である。鳴輪は
馬の口元から鞍の前にかけて吊る独特な真鎗製ドーナッ型の鈴で各
音色の異なるのが特徴であり、.元来は牧場の狼除けとして発達した
との説もある。また小鈴はむながい・しりがいに音色のよい小鈴を
多く吊り下げるが馬の歩行に連れて、その音がチャグチャグという
音色を出し鳴輪と調和をとっている。多くの部分は、良質の麻であ
り、染料も紫紺染め、草木染めの手法による古代味あふれる紺・古
代紫・こげ茶・ボタン・朱色などの色彩あざやかなもので豪華なも
のは総練り絹を材料として用いられた。
 装束の順序は一番先に荷ぐらをつけ二布(ふたの)ぶとんをかけ、次に腹あ
てであるが、それはあい染め麻三幅一丈八尺、中央六尺で腹をまき
つ呈み、両端六尺宛を二つに割り、肩と腰でそれぞれ結い上げ、あ
まりを四肢にそって垂らす。次いで鳴輸をつり、胸がい・尻がい・
革ずり・くびよろい・まびさし・鼻かくしの順に装着し、最後に飾
り切れをのぼりに準じて黒・黄・緑・赤・青をさげる。あし毛・青
毛の馬は緋色、か毛はもえぎ、栗毛は紫の装束である。
 しかしこの大事な装束も、今日では保存も補充も十分でたいため
年々痛みくたびれてきていることは残念である。残りものを寄せ集
めたのでは調和がとれず優雅さが失われる。昭和四十年ごろ一頭分
の装束は三十万円以上もしたという。
 森口多里氏は『民俗の四季』の中で「チャグチャグ馬コの美々し
い装束は、人に見せて楽しませるためよりもまずお蒼前様にお目見
えする儀礼のための晴れの衣装であった。五月節句に働いてはなら
ぬという戒律を馬に守らせるのは蒼前の霊力を受けるためであった
が、こちらから積極的に出かけて霊力を受けようとしたのが蒼前参
りであったのだ。神霊の分子ともいうべき活勢はつまり霊力で、こ
の霊力のヨリシロとなるものこそは絵馬であった。だから旧五月五
日の朝蒼前の社に参拝した人々が絵馬を買って腰にさげて境内を出
るのは、遠い祖先からの信仰に合致するものである。霊力は絵馬を
ヨリシロとしてマヤまで導かれるという信仰である」という。

    お 神社の起源
 南部馬史研究家・チャグチャグ馬コ保存会理事の吉田芳哉氏は、
『奥羽史談』第五二号で「鬼越蒼前様御鎮座の地帯は、少なくとも
今より約一、二○○年程前から優良馬匹の集散地で、大和方面から
名馬を欲しい連中が押しかけ、彼等が俘囚(ふいん)と呼ぶ人々を通じ取引が
繁盛したため姥屋敷なるものがはやった位である。因みに姥屋敷と
は、現代語に直すと遊女屋ということになりそうだ。このことから
その辺は如何に繁盛した馬匹購売市場であったかということが知ら
れる。ここにおいて、大和の財源は日高見に流入し、いわゆるまっ
ろわぬもの共が強くなることを恐れた大和政府は、ひそかに馬匹を
移入することを命令によって厳禁したことが古文書に見えている。
これによっても此の辺は日高見有力者の根拠地であったこと、そし
てそこには彼等の心の拠り所である祭り場のあったことが容易に納
得できることであろう。従って鬼越蒼前様は、今では日本一古いお
蒼前様であるといいたい。そして、その昔北アジァに広く分布した
シャーマン教から深い影響を受け奥羽一帯に大いなる根を張った山
岳宗教、すなわち、後年の修験道に関係のある信仰体型に入る原始
宗教の一つが蒼前神信仰であると考えられる。しと述べている。
 なお前記五、駒形神社を参照せられたい。

   か チャグチャグ馬コの変遷
 チャグチャグ馬コの起源は、山吉敬造氏がいう南部の殿様の参期
交代のときの小荷駄馬であるといい、森嘉兵衛氏は「寛政(一七八
九-一八○一年)年間に盛岡の馬市に集った馬喰や商人達が自分で
買った馬を五色の布できれいに飾り、大きな鈴をつけて、チャグチ
ャグ音を響かせながら、近郷の守護神にお参りしたのが、農民の間
にも流行して次第に普及したのだ。」という二説がある。
・明治になって一時衰えたが、盛岡市の関口に居住する昭和三十四
年に八十八歳だった熊谷定光氏は、十四歳の時から八十六歳までの
七十二年間、毎年参加した人である。熊谷馬の少年のころは、今の
ように馬の飾りはつけなかったし、行列もしないではだか馬に乗り
多いときは百頭位の馬が参拝したという。熊谷民が二十歳位(明治
二十四年ごろ)の頃侍(さむらい)が戦のとき馬にきせた飾りをある人から譲り
受けてきせて行ったところ、それから外の人達もだんだん馬に飾り
をつけるようになり、御蒼前さまの前で審査をし、一等から三等ま
で賞品をくれるようになったといっていた。
 日清戦争のころから、岩手県は軍馬育成地になったので、どこの
農家でも馬を飼うようになり、農耕馬のみならず、軍馬の生産が盛
んであったから、チャグチャグ馬コも非常に盛んになり、地元の本
村では壱千頭程が参拝をしている。
 その後、第二次世界大戦が始まると、丈夫な馬がどんどん軍馬と
なって徴集され、チャグチャグ馬コはだんだんすたれてきた。そこ
で、地元が中心になり、長い伝統のあるチャグチャグ馬コを続けよ
うと、昭和二十六年に保存会を結成し、観光行事として普及してか
ら、一年ごとに盛んになり、全国的に有名になっていった。
 昭和三十三年から毎年田植えのころにあたる旧五月五日を新暦の
六月十五日に決めて全国に紹介をしたのである。
 駒形神社でお参りをすませたチャグチャグ馬コは、午前九時に出
発し、初夏らしい鈴の音を響かせながら、盛岡市の繁華街をねり歩
いて、午後一時半ごろ八幡官に到着する。

  き 行事の意義
チャグチャグ馬コ保存会理事の新藤喜多男氏は行事の意義につい
て以下の四つを延べている。即ち、祈り・戸籍・馬の市場・楽
しみがそれである。
 第一の祈りは近郊の馬という馬のすぺてが年に一度馬の守護神で
あるお蒼前さまにきれいな装束を美しく着飾り晴れがましい姿でお
参りし、五穀豊穣と無病息災を祈ることである。
 第二の戸籍はその年生れた子馬の毛色・額の星・脚の自等の特徴
を描いた絵馬を買い求めて、これをうまやの人口に掲げ、その馬の
戸籍札とすることである。
 第三の馬の市場は重要な意義を有するもので、元来南部馬の声価
は高く、当時諸国の馬買いが、この馬の集合する日をねらって方々
から集った。つまりチャグチャグ馬コの行事が自然に馬の市場とな
ったことは当然の帰結といえよう。
 第四の楽しみはその日一日農耕を休み餅を作って一家が駒形神社
の境内で団欒を楽しんだのであるという。
 本村における馬の飼育頭数は明治の初めには一千頭で、昭和二十
二年には八百頭、昭和三十三年にも八百頭、同四十二年には半減し
て四百頭になっている。これは農耕が機械化するに従って馬の飼育
が減少し、堆肥から金肥に変化したためである。従って昭和四十二
年の参加頭数は八十頭であった。


五 駒形神社


駒形神社の祭神は保食(うけもち)神で
境内は六反三畝二十歩、大字
鵜飼大平(だい)にある。
慶長二年(一五九七年)五
月五日鳥谷源右工門と申す者
三戸より駒二匹をひいてこの
地にきて息を止め、また、小笠
原氏由緒系図によれば、立往
生したのは享保六年(一
七一=年)五月四日で、馬
は厨川通鵜飼村の鳥谷源
右工門のものとたってい
る。叉、一説には和賀郡沢
内村新田力助という者端
午の節句の休日に田の代
掻ぎをしていたところ、
急にその馬驚奔して跳ね
出し鬼古里の山で息を止
める。部落民は御蒼前の
神とし、小桐を建てて信
仰し、毎年旧五月五日に
は近郷村仕事を休み、馬
に装飾をし早朝から鈴の
音勇しく馬に休養させ蒼前詣りをし牛馬の無病息災を祈願した。
明治三年(一八七O年)六月盛岡県庁より、三寸八分、二寸五分
の白木の角柱に「駒形皇太神」の五字の黒書が下附され、駒形神社
と改める。
明治四十三年県知事より神撰幣串供進神社に指定される。神社は
鬼越坂の側にあったが、火災の憂目にあい、再災を憂え、その上例
祭には参詣人多く狭随なため雑踏甚だしく、明治四十四年十一月十
六日現在地に移転をする。然るに数百年間伝統の装飾馬憩次第にす
たれ参詣馬は鞍や裸馬で参拝をするようになり、地元及び畜産家有
志深くこれを憂い、伝統を保存すべく、昭和十五年より勧奨し、昭和
二十六年より滝沢村・盛岡市協力のもとに、チャグチャグ馬コ保存
会を結成し、昔そのままの姿で参詣するようになる。なお昭和三十三
年より祭目を毎年六月十五日と定め全国に宣伝をすることになる。

●忠魂碑
大正九年(一九二○年)田中陸軍大臣の書による忠魂碑を駒形神
社の境内に建立する。
●月読社
明治四十一年に三日月大神宮の祭神月読命を第四地割より駒形神
社境内に移転するo
●山祗(ぎ)神桐(し)
享保のころ(一七一七-三六年)姥屋敷に上厨川より移住した佐
々木某なる人があった。この地の石川某と心を合せて最も風致に富
み神域として最適の現地に大山祗(つみ)の大神を勧請し産土神として部落
一同九月十二日を祭日と定めて祭典を執行し、厚く崇拝をしていた。
維新前雫石新山例祭のときには度々別当の自光坊が護摩祈祷をな
したという。その後社桐風雨にあらされ、腐朽したので大正四年
(一九一五年)九月全部落民協力して二間四面の社殿を建立し、遷
座祭を取行った。